警備保障タイムズ下層イメージ画像

クローズUP

静岡・富澤会長の叙勲祝う2017.3.11

警備業界発展に尽力

昨春の叙勲で「旭日双光章」を受章した静岡県警備業協会会長、富澤静雄氏(76)の祝賀会が2月25日、地元の静岡県藤枝市で開かれた。富澤氏は県警協だけでなく、市商工会議所会頭、ロータリークラブ、警察友の会、サッカーJ1・アビスパ福岡会長など、地域の活動に幅広く貢献した。全国の警備業界では18人目の叙勲受章者。

祝賀会は当初、昨夏を予定していたが、みち代夫人が体調を崩したことで延期、回復を待っての開催となった。

会場となった「小杉苑」はオープン以来、最多となる200余人が一堂に会してお祝いした。

全警協の青山幸恭会長は、祝辞の初めに「私が今席で、富澤会長を“先輩”と呼ばせていただきますのは、生まれの干支が同じ辰年で、一回り先輩だからなのです」と、前置きして次のように祝意を述べた。

「先輩には県下の諸々のリーダーとしての活動が叙勲につながりました。警備業は、まだまだ、社会的な存在を高めなければなりません。人生90年、益々お元気で、私どもを叱咤激励していただきたい」。

関東地区連の島村宏会長(茨城県会長)は「過去の慣習にとらわれない柔軟な発想と失敗を恐れない人情味あふれるリーダーシップを発揮されました」と、富澤氏の人となりに触れた。そのうえで、昨春、天皇陛下に拝謁した喜びを報じた本紙記事(5月21日号1面)を引き合いに出し、その折の感激ぶりは、いかにも富澤氏らしかったと語った。

藤枝市長、北村正平氏は「一口に内助の功と言いますが、とくに富澤さんのようなご性格(亭主関白の意?)では、さぞ大変でございましたでしょう」。地元選出の衆院議員、井林辰憲氏(警議連)は「富澤さんが叙勲の祝いをやらないのは、もう一つ上の勲章をもらってからやるらしいぞ、と噂していたのです」などと、ジョークを交えてお祝いの言葉を贈った。

謝辞に立った富澤氏は、前記2氏が会場を和ませたのを引き継ぐように「協会の山田嘉雄専務理事からは、〈いつもの“富澤節”でよろしいのでは〉と言われていたけど、叙勲なので、そうもいかない。きちんとやります」と文面を広げ、28歳での創業時からの私史を振り返った。

しかし、「人生、紆余曲折どころか、波乱万丈でした」のくだりを境にユーモア満載の謝辞となった。

「来賓の皆さんは、内助の功とおっしゃられたが、全然家内のおかげじゃありません。ただ、後から付いてきただけ。これは間違いありません。勲章の伝達式は、“右代表”で受領した。皆さん、ここは拍手してくださいよ。陛下との拝謁は、夢じゃなかろうかと舞い上がってしまいました」など、笑いを誘う軽妙洒脱な言葉を続けた。

ただし、締めは、居住まいを正し、「残る人生、警備業界と地域の発展のために、今後も力を尽くしてまいりたい。ありがとうございました」と結んだ。

特集ワイド 震災復興、苦闘する警備業2017.3.11

2011(平成23)年3月に発生した東日本大震災は、特に岩手、宮城、福島の東北3県に大きな被害をもたらした。あれから丸6年を迎えた。現地では今、途方に暮れるような“がれき”の山も姿を消し、さまざまな復興への取り組みが進んでいる。街の再生へ向けた建設工事での交通誘導警備など、復興を支える警備業の現状を追った。

人材確保、さまざまな活動
東陵総業(岩手) 代表取締役 阿部正喜さん(岩手県警備業協会会長)

復興の視点で言えば、警備業だけではありませんが、“人手不足”が大きな問題です――。

こう指摘するのは、岩手県警備業協会の阿部正喜会長。自身が代表取締役を務める「東陵総業」本社は、東日本大震災の津波で甚大な被害が発生した釜石市内にある。

津波が本社社屋2階まで飲み込んだ同社では、各地で6人の社員・関係者が死亡し、うち2人は今も行方不明のまま。復興への思いは人一倍強い。

地元警備業を取り巻く環境について尋ねると、近く実施が予想される指定路線の大幅な増加、震災被害の大きかった沿岸部を中心とした人口減など、人手不足に拍車を掛けそうな材料が多い。

広告出しても人は来ぬ

県内では平成13年頃、約1300億円あった県発注の建設工事が、東日本大震災直前の平成22、23年頃には約400~500億円に減少した。県内の建設業、これにつながる、特に2号警備業務を主体とする警備業は“ジリ貧”状態だった。その流れを大きく変えたのが、震災復興事業だった。

一方で、復興事業による道路整備などにより今後、沿岸部へのアクセスの飛躍的な改善が予想されるが、働き手の流出という“もろ刃の剣”の一面も見え隠れする。震災前から続く〈人手不足の深刻度〉は、変わらないままだ。

求人誌でよく目にしていた、「就職祝い金支給」などを謳った警備会社の求人広告も、最近はめっきり少なくなったという。「広告を出しても、人が集まらないからですかね」と、阿部会長は推測する。

一方、阿部会長は、ハローワークを会場に行われる就職説明会を活用している。昨年、厚生労働省が開始した「警備業人材確保対策」での支援策だ。

同氏は昨年9月以降、ハローワークで3回の就職説明会を開催、人材獲得につなげた。さらに、「若者を採用していくには、待遇面の改善は不可欠」と指摘。公共工事設計労務単価の引き上げによる警備料金のアップが図られ、「今が雇用管理を改善するチャンス」だという。

全国的な課題だった社会保険についても、県内では約9割が加入を果たした。労働条件を落とすことなど人材獲得の上では論外だ。

犠牲を無駄にしたくない

人材不足は、現場の警備員だけにとどまらない。

県内では特別講習の講師も減少し、県単独での講師の用意が難しくなりつつあるという。そこで阿部会長は、東北地区連や隣県との連携を提案する。さらに、協会事務局もマンパワー不足が問題で、この解消のために会員に従来以上に当事者意識を持ってもらい、協会の常設委員会の活用を模索する。

震災後、全国から寄せられた義援金を原資とした、釜石同様甚大な被害のあった大槌町でのボランティア活動、自衛隊協力会の会長として復旧・復興に当たる自衛隊への支援、さらには協会青年部立ち上げと活動支援による警備業の社会的認知度向上――など、復興へ向けて取り組んできた阿部会長。

震災が発生した6年前の3月11日は、内陸部の滝沢市内にいたために、危うく難を逃れたが、13日に釜石入りし、目に飛び込んできた、ブルーシートで追われた数多くの遺体の姿は、今も目に焼き付いている。

彼らの犠牲を無駄にしたくない――。そう言って天を仰ぎ、目頭に光るものを拭う阿部会長。

2年後に釜石市内での開催が予定されている「W杯ラグビー」などを更なる復興へとつなげるとともに、“復興後”の警備業のあり方・対応についても思いを巡らしている。

大きく変わるチャンス
ゼプロス警備保障(宮城) 専務取締役 齋藤光智さん

30歳になったら故郷に戻る。そう決心して、県外の製造業で働いてきた齋藤光智氏。30歳を迎えた年は、東日本大震災が発生した年と同じ年だった――。

震災による混乱のため、やむなく翌年に石巻に戻った齋藤氏は、2号警備業務を主体とする「ゼプロス警備保障」に入社。故郷の復興へ向けた工事で、交通誘導警備員として再出発した。

現在は専務として、現場管理や営業に取り組んでいる。また、青年会議所に入会して異業種の若手経営者との交流を図るとともに、宮城県警備業協会の青年部にも発足時から参加。若い視点で今後の復興のあり方、警備業のあり方に向き合っている。

気持ちの変化に戸惑い

石巻市内では、地震による津波と、その後に発生した津波火災により、街の多くが“がれき”と化した。

同社でも、自宅の様子を見に行った従業員が津波で流されて死亡したほか、自宅が流されたなどの被害があった。

齋藤氏も当初は、変わり果てた街並みを見て、「元通りになるのか」という疑問もあったが、いつしか更地となり、さらに新たな建物ができていく様を間近で見てきた。

これまで同社は、海岸堤防の改修工事や新築工事などの復興事業に警備業として参画してきた。現在、石巻管内の復興工事はひと段落し、今後は南三陸や気仙沼地区にシフトしていくものとみられるが、同社の業務における復興関連事業占める割合も、徐々に低くなりつつあるという。約80人いる隊員は、今は石巻の本社と仙台の営業所に半々ずつだ。復興による街の変化を実感する一方で、いずれはなくなる復興需要に対する将来的な不安も感じるようになった。

また、震災直後に持っていた自身の感情が、年と共に変化してきたことに戸惑っている。以前は怠ることがなかった(1)車両へのこまめな給油(2)非常用品の備蓄(3)避難場所の確認――も最近は忘れがちだ。現任教育には、震災後にAEDや応急救護を新たに取り入れたものの、肝心の避難マニュアルは更新されていない。「“もう大丈夫”という気持ちが勝ってきたのでしょうか」と、齋藤氏。

青年部活動から刺激

青年部での活動は、齋藤氏にとって刺激を得られる絶好の機会だ。一方で、年齢の近いメンバーが、新たな取り組みに挑戦して成果を上げる姿を見て、“焦り”も感じる。しかし、自分が思い描く姿を見据え、業界のことについて熱く語り合うメンバーとともに切磋琢磨しながら挑戦していかなくてはならない。

特に震災を機に、公共工事設計労務単価が大幅にアップ、これに連動して業界の悲願だった警備料金の引き上げが可能となった。警備業界にとっては、大きく変わることのできるチャンスだけに、会社や業界に寄せる自分の夢を実現したいという思いも強いが、まだまだ踏み切れずにいる。

いずれ、社長の跡を継いで経営に当たることとなる齋藤氏。「今後、復興需要の終息など今まで通りでは対応できなくなる部分も出てくるはず。その時に備え、変えてはいけないもの、変えなければいけないものを見極めたい」と語る齋藤氏には、震災からの復興と新時代の警備業の発展が託されている。

半分に減った従業員
秀崇(福島) 代表取締役 百川秀彦さん

「津波にはやられませんでしたが、旧本社はもう使える状態ではありません。町には解体を申請しています」と、故郷との決別を決意した――。

2号警備業務を主体とする「秀崇」の百川秀彦代表取締役は、昨年12月に福島県双葉郡浪江町にあった本社を正式に閉じ、これまで仮の本社として事業を行ってきた同じ郡内の広野町に本社を移転した。

百川氏は、平成23(2011)年3月の大地震の揺れや津波で“制御不能”となった東京電力福島第一原子力発電所の事故により、住み慣れた故郷を追われた。

県内の飯坂温泉や山形県米沢市などを転々とする避難生活を経て、事故の年の7月に広野町内で警備業務を再開した。30人ほどいた従業員は、一時期は20人ほどに戻ったものの、今は15人。

復興工事や除染関連事業で交通誘導警備の仕事は多く、警備料金も上がった。従業員の数は半分になったが売上額は以前と同じ。しかし、人の手当てが大変だ。

〈警備のことなら任せて安心〉をキャッチフレーズ、〈規律厳守、発想の転換で地域に貢献〉を経営理念とする同社では、「当日のキャンセルは会社の信用問題」と、どうしても人の融通がつかない時には、社長の百川氏や夫人も警備員として現場に出るという。

「危険手当」であつれき

従業員が減った理由の一つは、「危険手当」をめぐる社内の不満だった。

除染関連事業や原発関連事業では、国などから1日1万円の危険手当(特殊勤務手当、現在は勤務地や仕事内容で額が異なる)が支給されるが、全ての従業員が危険手当を受け取れる業務に就ける訳ではない。危険手当を受け取れる現場に行った従業員と、受け取れない従業員との間に不公平感が生まれ、会社を辞めていった従業員もいた。

現在は、国土交通省の「公共工事設計労務単価」の大幅なアップを“追い風”に、詳細な明細を記した見積書を客先に提示、警備料金の更なる引き上げに取り組んでいる。

並行して従業員の待遇改善も進め、社会保険への加入はもちろん、週休2日制で月所定労働日22日をベースとした固定給化を実現した。また、入社時には10日間の年次有給休暇も付与するようにした。今後、家族手当や住宅手当などの更なる待遇改善に取り組む考えだ。

建設業に行ってしまう

悩みの種は、なんと言っても「人手不足」。ハローワークや官民の就職紹介所による合同説明会などで人材確保に努めるが、“働く人がいない”のが現状だ。

「他県から人は来ますが、多くは建設業に行ってしまいます」と語る百川氏。なるほど、付近で目につくのは建設会社の「作業員宿舎」だ。「地域に貢献したい地元の若者もいますが、行くのは建設業」と、警備業の待遇改善の必要性も指摘する。

震災前には、福島県警備業協会の交通・雑踏警備部会の部会長を、平成26年からは地元・相双地区の支部長と協会理事も務める百川氏。一時は“解体”の話も出た支部の存続に努め、今では「人手不足を理由に、仕事を断るのはやめよう」と、イベント警備には支部メンバーが協力して対応するなど、地域一丸となった復興事業にも取り組んでいる。

事故後、全域が人の住めない「避難指示区域」となっていた故郷・浪江町。今月末には規制が一部解除される。

「道路脇に数多く置かれたフレコンバッグ(フレキシブル・コンテナ・バッグ=除染で集められた土砂などが詰められた大きな袋)を見ると、帰る気にはなれません」と百川氏。地域の再生が遅々として進まない中、地元警備業の人手不足はまだまだ続きそうだ。