警備保障タイムズ下層イメージ画像

「知」に備えあれば憂いなし

潮田道夫の複眼時評

潮田道夫 プロフィール
東京大学経済学部卒、毎日新聞社に入社。経済部記者、ワシントン特派員、経済部長、論説委員長などを歴任し退社。現在、帝京大学教授で毎日新聞客員論説委員。内外の諸問題を軽妙な筆致で考察する「名うてのコラムニスト」として知られています。著書に「不機嫌なアメリカ人」(日本評論社刊)、「追いやられる日本」(毎日新聞社刊)など。

石油のマイナス価格はなぜ起きた2020.5.21

―油田は生産を止められない―

新型コロナウイルスのパンデミックで石油需要が激減し、4月20日、ニューヨーク原油市場の代表的油種WTI(ウエスト・テキサス・インターミディエート)は1バレル=マイナス37.63ドルと史上初めてマイナスになった。このWTIという原油はテキサス州とニューメキシコ州で採掘される軽質油でガソリンがたくさん抽出できる上等の油だ。ただし世界の産出量の1パーセント程度で非常にローカルな油である。

マイナスの値段が付くとはどういうことか。この日ニューヨーク市場で1バレル(ざっと160リットル)の原油を買う契約をすると、翌月の決済時には代金を払わずに済むばかりか原油1バレルの現物と現金30ドルがいただけるというわけである。

えーッ、だったら俺も買いたい。そう思うかもしれないが、それはやめたほうがいい。WTIの油は油田からパイプラインでオクラホマ州のクーシングという街にある原油集積所に送られ、そこで買い手に引き渡される。ここのタンクはおよそ9000万バレルを貯蔵できる。ドラム缶でまあ、1200万本近い容量である(暇な人はグーグルアースでクーシングの市街の南方に広がるタンク群を見るといい。壮観である)。

ずいぶん沢山に見えるが、実は今、これが満杯である。つまり石油の需要がコロナ禍による生産活動の休止で大幅に減っており、原油はここに滞留して出ていかないのだ。ということは売る方から見ると、いつものように原油を油田からクーシングに送って買い手に渡すことが難しくなっている、ということだ。

株や国債の取引に倉庫はいらないが、商品取引は商品の保管の問題がつきまとう。小豆相場で大損した投資家が現物を引き取ることになり、家が小豆で埋まった、などという笑い話があるが、原油も同じ。買った原油をどう引き取るか、それは素人の手に余る。私やあなたは、そもそも原油取引に参加できないが、仮にそれができてマイナス価格で買えたとしても、原油を引き取れず途方に暮れるか、タンク代が高すぎて大損するかがオチである。

大損か禁じ手の2択

マイナス価格でのWTI取引が発生したのは、堀った石油の貯蔵先に困った原油掘削業者がお金をつけてでも原油を売り払いたかったからだ。さもないと、そこら中が油浸しになってしまう。それは冗談として、実際には非常な割増料金を払って貯蔵先を探すか、生産を一時やめるしかない状況に追い込まれていた。前者は大損するし後者は禁じ手である。

というのも、原油の掘削というのは非常に微妙な計算と手際が要求される高度に専門的な作業なのだ。水道の蛇口をひねるように自在に掘削量を調整するわけにいかない。一旦、掘削を減らすと(比喩的に言うと)目詰まりを起こして復旧が難しくなったりする。逆に増産しすぎると原油の滞留層を破壊して元も子もなくす。

産油国の減産や増産の話し合いが難航するのも一つには油井を痛めたくないからだ。そして増減産が比較的楽にできるのは、超優秀な油田を多数抱えるサウジアラビアだけである。産油国グループでサウジがでかい顔をしている理由である。

さて、原油のマイナス価格が起きる事情に紙幅を費やしすぎた。今後の見通しを駆け足で。マイナス価格はWTIだけの話で中東原油等では起きていない。しかし、歴史的低価格は同じで、まず年内は低迷が続くという見方が多い。容易に想像できるようにコロナ禍の広がりと深度が油価の今後を左右する。

俗論では日本経済の低迷の原因はデフレだがそれは間違い。真犯人は資源価格の上昇(=輸入物価の上昇)と輸出産業の競争力の衰え(=輸出物価の下落)による交易条件の悪化だった。正統派経済学者の一致した見方。今回の原油価格の下落で日本の交易条件は好転する。日本経済への朗報である。これが結論。詳しくは次回以降で。