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「知」に備えあれば憂いなし

潮田道夫の複眼時評

潮田道夫 プロフィール
東京大学経済学部卒、毎日新聞社に入社。経済部記者、ワシントン特派員、経済部長、論説委員長などを歴任し退社。現在、毎日新聞客員論説委員。内外の諸問題を軽妙な筆致で考察する「名うてのコラムニスト」として知られています。著書に「不機嫌なアメリカ人」(日本評論社刊)、「追いやられる日本」(毎日新聞社刊)など。

デジタル人民元を使いますか?
-ドルの覇権はびくともしない-2020.07.21

中国では4月から、蘇州(江蘇省)、深セン(広東省)、成都(四川省)、雄安新区(河北省)の4つの都市で、デジタル人民元の実証実験が始まった。とりあえず地方政府の給与の一部をデジタル人民元で支給するほか、スターバックス、マクドナルド、サブウェイなどでも支払いができる。再来年の北京冬季オリンピックには全国展開を目指すという。

世界に先駆けての意欲的な試みであり、これを通貨主権や安全保障上の脅威とする見方がある。日欧の中央銀行が今年に入って「中央銀行デジタル通貨、Central Bank Digital Currency(CBDC)」の共同研究を開始したが、中国のデジタル人民元に刺激されてのことである。

先月のこのコラムで、通貨覇権を握っているのは米ドルなので中国は米国から経済覇権を奪えない、と論じた。これは中国自身が痛感していることである。デジタル人民元はその劣勢を覆していく武器に育てたいと中国が期待しているのも事実だ。中国の様々な要人が折に触れて表明しており秘密でもなんでもない。だが、繰り返すようだが、それは不可能とは言わないまでもまず無理であろう。

国際通貨基金(IMF)によれば、世界の外貨準備に占める人民元のウエートは2パーセントに過ぎない。米ドルは61.8パーセント、ユーロは20.1パーセント、円は5.6パーセントである。また、国際決済銀行(BIS)によると、通貨別の取引高は米ドル(約44パーセント)、ユーロ(約16パーセント)、日本円(約8パーセント)と続き、人民元は約2パーセントにとどまる。

この比率は3つの事情の反映である。(1)世界経済でのウエート(2)国際通貨としての信頼性(透明性の高い法治国家の通貨であること、発達した金融市場、資本移動の自由があること)(3)ネットワーク外部性(いますでに広く使われていること)だ。中国は(1)は世界第2の経済大国だから有資格者だが、(2)と(3)で脱落する。

デジタル人民元は商業銀行を経由して人々の手元に渡るにしても、発行者は中国中央銀行である。そのことの意味を考えないといけない。つまり、中国の中央銀行に金融資産の情報が筒抜けになり、かつ万一の場合は、金融資産の凍結を食らいかねない。それはデジタルだろうが預金だろうが同じことで、現に米国が「テロ国家」の指導者を制裁するのに使っているのを見れば簡単に了解される。

そして(3)。ドルがデファクトスタンダード(de facto standard)すなわち「事実上の標準」であることの壁は越えがたい。パソコンのキーボードの英字配列がQ W E R T Y…になっているが、これは人間工学的に入力しやすいからではない。パソコンの初期に適当に並べたのが惰性で使い続けられ、その結果、もっと合理的な配列はいくらもあるのにもう変更できなくなっている。米国が仮に落ちぶれても、世界共通語は英語であり続けるだろうが、通貨も同様の強い力が働くだろう。

ビットコインが大人気になった理由は発行者がネットワークそれ自体であり国家権力が介入できないからだった。大富豪や巨悪にとっての夢の通貨。デジタル人民元は逆で、中国で急拡大しているネット決済を国家が掌握し金融システムを統制するのがとりあえずの目的なのだ。アフリカや中南米で自国通貨が全く信用できなかったり銀行システムが未整備なところでは利用が広がる可能性があるが、先進国では誰も使うまい。日本では現金も信頼できるしクレジットカードやスイカもありスマホ決済も使える。誰がデジタル人民元を使うというのか。欧米も同様だ。

ただ、ドルの世界支配には問題もある。米国で金利が急騰すると新興国通貨が下落して通貨危機が起きたり、世界情勢がキナ臭くなるとドル不足が起きて信用収縮が起きたりする。そこでイングランド銀行のマーク・カーニー元総裁は主要国の中央銀行が「合成覇権通貨(Synthetic Hegemonic Currency)」を作ったらどうかと提案している。日欧の中銀がデジタル通貨を共同研究するならこれも研究課題かもしれない。