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「知」に備えあれば憂いなし

河内 孝の複眼時評

河内 孝 プロフィール
慶応大法学部卒。毎日新聞社に入社、政治部、ワシントン特派員、外信部長、社長室長、常務取締役などを経て退社。現在、東京福祉大学特任教授、国際厚生事業団理事。著書に「血の政治―青嵐会という物語」、「新聞社、破たんしたビジネスモデル」、「自衛する老後」(いずれも新潮社)など。

安倍自民党総裁3選後の世界2018.9.21

-政治を怨念の輪廻転生にしないために-

各種マスコミの調査を信ずる限り自民党総裁選での安倍首相の勝利は動かないだろう。その結果が“圧勝”だったら、安倍政権の道のりは必ずしも平たんではないのでは、という話をしたい。

安倍晋三にとって生々しい自民党総裁選の記憶は、父、晋太郎が河本敏夫、中川一郎とともに中曽根康弘に挑んだ1982年11月の予備選挙から始まるであろう。晋三が政界入りするのは、この選挙で田中、大平両派の全面支持を得た中曽根が勝利。政権発足とともに外相に就任した父に乞われ秘書官になった時である。

金脈批判で田中角栄首相が、その座を追われた1974年11月から中曽根政権が生まれる1982年11月まで8年以上も続いた自民党党内抗争は、怨念の交錯した闘いの日々だった。

田中派は、ロッキード事件を奇禍として当時の首相、三木武夫が田中角栄を処断したと復讐を誓う。2年間で政権の座を田中・大平連合に追われたと福田派は恨む。その福田派を中心とした反主流派に“盟主”を殺されたと怒る大平派の怨念。「三角大福中(三木、田中角栄、大平、福田、中曽根)」の自民党総裁予備軍中、例外になるまいと権力奪取に権謀術策を駆使した中曽根の執念。その交錯が8年の抗争劇だ。

この間、安倍親子が属する福田派は苦汁を飲まされ続けた。ポスト三木の政争で政権に就いたものの、大平に「2年で政権を譲る」という密約を入れ、田中派がやむなしと受け入れた産物だった。

天の声にも時には変な声がある

福田自民党総裁は総裁選びに、2年以上継続の党員・党友を参加させる予備選の導入に踏み切る。「議員の数では負けるが現職総理の人気で党員票は取れる」という“浮動票頼み”の戦術だった。しかし、衆参議員の後援会幹部、地方議員を中心とした自民党員に浮動票などない。結果は惨敗。福田は、「天の声にも時には変な声がある」と語って去った。

順風に恵まれた大平政権だったが79年9月の「一般消費税選挙」で惨敗。反主流派が首相辞任を求める「40日抗争」が勃発する。80年5月、衆議院本会議で野党の提出した大平内閣不信任案に自民党反主流派69人が欠席して不信任案は成立、大平首相は解散を断行するが告示日に心筋梗塞で入院、10日後死去する。怨念の輪廻がめぐる。

大平首相急死への同情票が集まり自民党は大勝。後継政権は、話し合いで鈴木善幸に落ち着いた。しかし、党内は収まらない。ヘゲモニーを握る闇将軍、田中角栄の「三木憎し、福田憎し」は高まる一方だ。鈴木は、政権を任期切れの82年で投げ出し、後継を決める総裁選が同年10月に行われた。

ポスト鈴木を目指し、中曽根、安倍、河本、中川一郎が手を挙げる。結果は、田中派と、党内第2勢力である大平派の全面支持を得た中曽根に反主流派3派が粉砕される。中川一郎に至っては自死に追い込まれた。

自民党史を振り返りながら現在の構図を見ると福田派の末裔である安倍対田中派の末裔、石破の対決となる。政争に負け続け、党内野党の悲哀をなめ続けた怨念こそ圧勝を目指す安倍のエネルギー源のように思える。しかし圧勝した安倍が石破の応援に回った議員を弾圧し、側近政治を重用すれば新たな怨念が誕生するだろう。

安倍は自身にとって「最後の総裁選」と明言した。その瞬間からポスト安倍レースは始まっている。旧田中派(竹下派)と大平派(岸田派)の再接近の可能性はないか。様々な方程式が動き始めた。任期を全うすることは容易でない。(本稿では敬称を略させて頂きました)