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「知」に備えあれば憂いなし

河内 孝の複眼時評

河内 孝 プロフィール
慶応大法学部卒。毎日新聞社に入社、政治部、ワシントン特派員、外信部長、社長室長、常務取締役などを経て退社。現在、東京福祉大学特任教授、国際厚生事業団理事。著書に「血の政治―青嵐会という物語」、「新聞社、破たんしたビジネスモデル」、「自衛する老後」(いずれも新潮社)など。

液状化する世界
ー日本はどう生きるー2023.10.21

「おい、その恰好は何だ!」。

旅券を調べていた下関港の入国管理官が、初めて故郷の土を踏んだ中国服姿の山口淑子を呼び止めた。戦前、下関は大陸からの玄関口だった。

1938年(昭和13年)、満州映画女優としてデビューした直後のことだ。以下、山口の「李香蘭、私の半生」から引用する。

「いいか、日本人は一等国民だぞ。三等国民のチャンコロの服を着て、支那語なぞしゃべって、それで貴様恥ずかしくないのか」。

日本人両親の間に中国奉天(現瀋陽市)で生まれた山口は、「国策」により日本語巧みな中国女優、李香蘭に仕立て上げられ、爆発的な人気を呼んだ。

評論家、佐藤忠雄は日本男性、長谷川一夫と“中国女性”李香蘭との恋を描いた「白蘭の歌」(1939年公開)をこう評している。「李香蘭は、心から日本男子を慕う純情可憐な中国娘に見えた。日本人にとっては、自惚れを満足させてくれる甘美な幻想だった」(キネマと砲声・86年)。

80年以上前の話だし、今や山口淑子を知らぬ人の方が多いだろう。でも、あえてこのエピソードを取り上げたのには理由がある。

昨年夏、江蘇省蘇州で浴衣を着た中国女性が、「お前中国人か。何故、中国服を着ないのか」と公安に拘束された。反省文を書き、中国服に着替えて釈放されたという。これ以降、日本アニメのコスチュームを付けた若者などの検束が相次いでいる。中には、係員の無知から中国古来の民族服に身を包んだ女性まで制止されるという笑えぬ珍事も起きている。

山口淑子を誰何(すいか)した警察官には、治安維持法(1925年制定、45年廃止)があり、中国公安職員が振りかざしたのは、「治安管理処罰法」だ。近年改正され、現場の判断で、「風紀を乱し、中華民族の精神を損なう」者を検束できるようになった。

名前は異なっても人民を監視し、自由な日常や言論活動を封殺する法律である点は同じ。つまり80年前の下関が今日、中国全土に及んでいるといえる。

民主国家は少数派に

私たちが戦後学んだ歴史は、強権で国民を弾圧する独裁政権が正義と自由を求める国民の力で打倒され、民主的な国家が生まれるというものだった。

世界を米ソの東西対立(冷戦)と、持てる国々の「北」、持たざる国々の「南」に分けて、「共産主義は行き詰まる。南は、北の支援で発展する」という楽観論が支配的だった。

しかし、世界の白地図をイメージして、国民を政治的に抑圧する専制的国家群を赤で塗り潰していくと白い面積がどんどん減っていく。

北朝鮮、ロシア、中国、イランは真っ赤。トルコ、エジプト、サウジは「赤」。インドも「赤に近いピンク」ではないか。

アフリカ、中南米で民主主義と呼べる国家はごく少数。仮にトランプが来年の大統領選挙で再選されれば、アメリカも「ピンク色」に染まるかもしれない。

何故、こんなことになったのだろう。単純化して言えば、日本を含む西側諸国の内部分裂が原因だ。グローバル化により工業部門が西側から中国を含む南側諸国へ移転した。

結果、民主的市民社会の基盤、中産階層が一握りの「より富める層」と、残りの「貧困層」に分解した。失われた階層の孤立感、怒りが移民排斥、ポピュリズムに向かう。西側国家内の南北対立だ。

自由、平等、公正。西側が掲げる民主主義の諸価値が、まず自国内で失われた。同時に西側は、世界を指導する精神的優位性も失った。グローバルサウス諸国の政治的、経済的自信は、その裏返しといえる。

今年9月の国連総会一般演説でイランのライシ大統領は、「人類は新たな軌道に入り、旧勢力は衰退しつつある。彼らは過去であり、われわれこそが未来だ」と胸を張った。

過去にも同じような話を聞いた気もする。しかし、西側諸国がこの流れを変えたいなら、まず自国内の分裂(格差)解消から着手しなくてはならない。無論、日本も例外ではない。