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警備業ヒューマン・インタビュー
――新・警備服シリーズ2024.10.21

谷川卓実さん(持田 代表取締役)

デザインにこだわる

<<持田が開発した「斬新なデザイン」と「機能性」を併せ持つ警備服が注目されています>>

NEO SECURITY(ネオ・セキュリティー)シリーズです。「警備服とはこういうものだ」という固定観念を壊したかったのです。

警備業は人手不足が大きな課題ですが、原因の一つに「業界イメージがよくないこと」があると思います。警備業の商材である「警備の質」は目に見えないものですが「警備員の外観」は見ることができます。警備服をこれまで以上にスタイリッシュにすることでイメージアップを図り、業界の未来に貢献したいと考えました。

従来なかった斬新な警備服を開発するため、当社に3年前に入社した企画室・打越太一室長を中心としたプロジェクトを立ち上げました。コンセプトが固まり2022年12月に「コンセプトカタログ(VOL・ZERO)」を発刊。その一年後に「定番カタログ(VOL1)」を発行して、販売を正式にスタートさせました。

<<新シリーズで大切にした「柱」は何でしょう>>

高い機能性はもちろんですが、「存在価値を上げるための圧倒的なデザイン性」にこだわりました。検討段階で注目したのは海外、特に欧州の警備服です。ドイツを筆頭にオランダやトルコの警備服は実に見栄えがするデザインで、若者に「着てみたい!」と思わせる仕上がりでした。

欧州には危険な環境下で業務を行う人の視認性を高めるため、反射材や蛍光色の服を着用する規定があります。作業者の安全を国や業界で守ろうとする取り組みです。日本の警備業でも見習うべきだし、高い視認性を新シリーズに取り入れることにしました。

<<どのような展開をめざしていますか>>

今年9月に発行したNEO SECURITYシリーズの新カタログ(VOL2)に紹介している「MS―J38(ジャケット)」と「MS―PA37(パンツ)」は、特に2号警備で多く採用していただきたいです。今までほとんど販売されてこなかった「ホームセキュリティー」や「3号警備」に特化した警備服も既にラインアップしており、今後さらにアピールしていきます。1号警備用の制服はシリーズにまだ少ないので展開を広げていく予定です。

最終的にはNEO SECURITYシリーズにブランド力を持たせ、当社の全警備服に浸透させることを目標としています。

<<展示会などに参加して広報する計画はありますか>>

ドイツで隔年開催している「A+A 国際労働安全衛生展」という労働安全・衛生分野の見本市があります。その日本版の位置付けで、25年7月に「はたらく現場の環境展(JIOSH+W)」がインテックス大阪(大阪市)で開かれます。当社の警備服は、海外のトップレベルの服と並べても見劣りしないと自負しており、出展を検討しています。

また警備業の若手経営者が企画・運営する集いが不定期で開かれていると聞いています。「新たな取り組みで警備業の未来を切り開く」当社のコンセプトと合致すれば、参加したいと考えています。

<<谷川社長は警備服を扱って長いのですか>>

私は22歳で他のユニホーム会社に入社しました。その会社は2004年に倒産し、43歳のときに持田の親会社である総合ユニホーム企業のアイトスに入社しました。警備服に特化した持田には昨年入社し、今年9月に代表取締役に就きました。

就任以来、新しい警備服の魅力やメリットを警備会社の経営者・幹部の皆さんに伝えてきました。今は全国各地で警備員の方々に着用してもらい、各警備会社の雇用促進につながっているようです。特に若い経営者の方からは「持田の制服に変えてよかった」というありがたい声を聞いています。

当社の本社がある大阪府内では来年、「2025大阪・関西万博」が開催されます。前回の「1970大阪万博」では、当社の警備服が一部で採用されました。2度目の万博にも関わることができるかもしれません。

<<忙しい毎日ですが、息抜きはどのように?>>

趣味は「温泉めぐり」と大阪の「だんじり祭り」です。祭りの期間には重さ4トンの巨大な「だんじり(地車)」を参加者が一丸となって引っ張り疾走します。父親も夢中だったことから、私は生後すぐから64年間参加しています。年齢でポジションが変わり、26〜27歳の2年間は花形の「屋根乗り」も経験しました。学生時代は陸上競技の中距離走をやっていましたが、祭りは2日間で約50キロ走るため、近づくと走り込んで備えています。

警備業ヒューマン・インタビュー
――新会長 宮崎警協2024.10.11

末益秋仁さん(セコム宮崎 代表取締役社長)

災害への備え整える

<<宮崎県警備業協会の会長に就任されました>>

セコム宮崎の代表取締役になってから10月で2年4か月になります。当初は宮崎県の環境や文化にすばやく順応できるよう、いろいろな場所へ出向き、たくさんの方とお話しする機会を有り難いほどいただきました。そのような中での協会会長への就任は、私にとって大きな転換期となることは疑う余地もなく、その重責に身が引き締まる思いです。

これからは足元のことだけでなく、宮崎県の警備業界発展のために精一杯尽力していく所存です。

<<県内警備業の現状・課題をどのように捉えていますか?>>

宮崎県の第一の課題は、警備業界全体でも大きく取り上げられている「人材不足への対応」です。統計学的に見ても、年々人口が減っていくのは明らかであり、当県のみならず業界を挙げての賃上げや労働条件の改善に取り組むことは自明の理です。

今後は「価格転嫁による適正価格の実現」や「昭和型の働き方」からの脱却、先端技術の導入、他業種との人材獲得競争に打ち勝つための「警備業の魅力づくり」が必要です。「新たに入ってくる人」の歓迎だけでなく、「いま一緒に働いている人」が快活に働き続けられる職場環境の改善が急務です。

<<取り組みたいこと・やってみたいことは何ですか>>

8月8日午後4時40分ごろ、宮崎県沖の日向灘を震源とする震度6弱(マグニチュード7.1)の地震が発生しました。気象庁は南海トラフ沿いで近い将来に「巨大地震」が発生する危険性が高まっているとして、初の「南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)」を発表しました。いよいよ南海トラフ地震の発生が現実味を帯びてきたな、と実感しました。その余震もまだ冷めやらぬ8月末には台風10号による突風が宮崎県を襲いました。

天災を相手に人のできることは限られています。まずは警備会社自身が己の被災を最小限に留めることに努め、続いて協会や会員の皆さまと連携を深めることで可及的速やかに地域の復旧に目を向けられるよう、災害に対する備えを整えていきたいと思っています。

<<県外出身の会長です。これまで宮崎との関わりは?>>

2021年、福岡県に1年ほど勤務していたとき、出張で一度だけ宮崎県に降り立ったことがあります。それ以外は仕事でもプライベートでも、それほどの関わりはありませんでした。

宮崎への赴任が決まり、前泊で乗り込んだその夜、初めて会う社員から「宮崎の芋焼酎」を振る舞われたときは、早々に抱いた「最初が肝心だ!」という気負いはすっかり消え、非常に心地よい気持ちで初日を迎えられたのを覚えています。おかげで宮崎県の第一印象は非常に良いものとなりました。

<<警備業界入りしたきっかけは何ですか?>>

前職は衣料品の卸売業でした。学生時代のアルバイト先で、当時出入りしていた取引業者に「うちの会社に来ないか」と誘われ、後先考えずに入社を決めました。

当時はバブル期で、景気のいい毎日を過ごしていましたが、バブルが弾けたあとは、同期の仲間がどんどん去って行き、気がつけば50人いた同期も5人だけ。おまけにボーナスもカットされたので会社を去りました。

退職後は就職情報誌を読みあさる毎日で、偶然今の会社に目が留まり、現在に至っています。

<<警備業でのこれまでの主な仕事は?>>

警備員としての勤務は入社後の2年間だけで、それ以降は営業職、事業所長職に就いていました。印象に残っているのは、茨城県水戸市内に勤務していたころに体験した東日本大震災と昨年開催された侍ジャパンWBC宮崎キャンプでしょうか。

国民的行事にまでなった宮崎キャンプを宮崎県警備業協会総出で挑み、大きな事故や事件もなく、成功裏に終えられたことは協会にとって良い経験になりました。

一方で、営業なり立ての数年間は全く契約できず、非常に苦労したことを覚えています。ある時、お取引先の方から「末益さんのやり方はスマート過ぎて、営業としての熱意が伝わってこない」と言われたときは相当落ち込みました。今思えば、そのひと言がなければ今の自分はなかったと思っています。

しばらくして、その恩人は定年で勇退されましたが、別れ際に「今までいろいろありがとう、本当に助かったよ」と感謝のお言葉をいただいたときは、喜びで心が満たされたのを覚えています。お客さまからの感謝の言葉は何ものにも代え難い大切な財産です。

<<休日の過ごし方は?>>

転勤するときにマイカーを売ってしまったので、単身赴任先ではもっぱらクロスバイクに乗っています。あてもなく数時間走る続けることもあります。それを今でも続けているということは、自転車に乗ることがリフレッシュになっているのかもしれません。

警備業ヒューマン・インタビュー
――新会長 青森警協2024.10.01

柿﨑忠俊さん(青森綜合警備保障 代表取締役社長)

「安全安心」に努める

<<青森県警備業協会の会長に6月の総会で就任され、4か月になります>>

青森県の状況としては全国と一緒で、警備員の慢性的な人手不足をはじめとして、適正な警備料金の確保や警備員の健康管理、労働災害の防止など、いろいろな課題があります。コロナ禍が明けて、イベントなどが行われている中、警備業界として需要に応えていかなければなりません。

夏場は協会活動がそれほどなかったので、これから会長として動くことが出てくると思います。プレッシャーは多少なりともありますが、会員各社の力を通じて、会員の維持、増加や警備員の質の向上、青森県内の安全安心に努めていきます。

協会活動には青年部の立ち上げの時に顧問として、アドバイザー的な立場で携わりました。青年部の方々と情報交換ができたことは大きかったと思います。

<<青森警協の強みはどんなところでしょう>>

協会の会員数は82社。人手不足で警備需要に対応できない時に新しい会社ができるなど、いろいろなケースがあったと思いますが、会員は増加傾向にあります。鳥インフルエンザの防疫措置や災害時支援で県と協定を結んでいて、数年前に鳥インフルや水害が発生したときに対応しました。会員会社に声を掛けるとスムーズに対応できることは強みだと感じています。

<<大学進学で上京し、卒業後、青森に戻りました>>

大学を卒業したらUターンしようと就職活動で地元企業、地元に貢献している企業を探しました。縁あって、銀行に就職することができました。銀行では支店3か店で勤務。外回りから預金、融資などまで、銀行業務全般に携わりました。お客さまから感謝されることにやりがいを感じていました。

当時、父親が今の会社(青森綜合警備保障)の社長をしていました。その姿を見て、いずれ私もやってみたいという気持ちは前々からありました。「10年ひと区切り」という思いもあり、銀行を辞めて、青森綜警に入る決意を固めました。振り返ってみると、父親の年齢、私の年齢からも、いいタイミングだったと思います。

最初は会社の営業の仕組みを覚えるために、営業部で仕事をしました。外から見ていた時の警備業界は、まちなかで見掛ける警備員のイメージしかなかったのですが、中に入ってみると、いろいろな仕事があり、24時間365日、社会に貢献していることを感じました。その後、支社長をやらせてもらったり、人事・労務関係に長く携わりました。

2011年3月11日に発生した東日本大震災は今でも記憶に残っています。あの日の(午後)2時46分、突然停電になり、そのまま夜を迎えました。ライフラインがいつ復旧するのか分からない中、社員のみんなが「これからどうなるのだろう」という不安な気持ちを抱えながらも、お客さま対応に当たっていました。

<<2年前、社長に就任しました>>

専務を長くやっていたので、心の準備はできていました。前社長にはコロナが落ち着いたらバトンタッチしようという気持ちがあったのではないかと思います。

人手不足は本当に大きい課題で、会社独自で解決することは難しい。知事をはじめとして自治体で対策に取り組んでいますが、若い方々にどうやって青森に残ってもらうか、青森を離れている方々がどうしたら戻ってきてくれるか、県全体で考えていかなければならないと思っています。

より良いサービスを提供して、人件費の上昇分を警備料金に乗せていくことも課題です。人件費が先に上がって、その後に価格転嫁をするという難しい部分がありますが、これから毎年、努めていかなければなりません。

今の世の中、5年、10年先を読むのは非常に難しいですが、警備会社があることによって交通事故が減少し、特殊詐欺が撲滅するなど、より良い社会になってくれればと思います。

少子化、人手不足の中で、警備会社が就業先の選択肢の一つになるよう、イメージアップに取り組んでいくことも大事です。警備員の制服を今の時代に合わせてリニューアルしていくことは良いことだと思います。

<<オフの日はどのように過ごしていますか>>

極力、運動することを心掛けていて、最近はゴルフやウオーキングをしています。体を動かしていると、仕事のことなどを忘れられる部分があります。

旅行に行くことはなかなかできませんが、家族との時間をつくるようにしています。