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警備業ヒューマン・インタビュー
――初代青年部会長2024.11.21

山崎里史さん(国際パトロール 代表取締役社長)

企業の垣根を越えて

<<秋田県警備業協会の初代青年部会長を8年務め、現在は副会長を務められています>>

若い世代が警備業界の将来を考えて活動に取り組むことは大切です。ここ数年、青年部会の発足が全国的に広がり「警備の日」PRや地域貢献活動がさらに活発になって嬉しく思います。青年部活動を通じて得た経験や人脈は、いずれ社業に活かされるものです。

10月4日には東北6県と北海道の部会員が秋田市に集まり「青年部サミットin秋田」が開催されました。活動発表や意見交換が行われ大いに盛り上がりました。

<<青年部サミットin秋田では「青年部会発足の思い」と題する講演を行いました>>

熱心に活動に取り組んでいる皆さんに、青年部会がスタートした経緯などを改めて伝えたいと思って話しました。

秋田警協青年部会は、東北地区では最初の青年部会として2011年に設立されました。私は交通誘導警備などを手掛ける「国際パトロール」(秋田市)の専務取締役で、協会理事を務めており特別講習講師を13年務めた経験もあって初代部会長を任されました。

当時は、2号警備を手掛ける会社にとって試練の時代でした。いわゆる低価格競争、ダンピング問題が発生していたのです。

価格の安さを競えば企業は消耗するばかりです。協会加盟各社が競争に巻き込まれることなく適正料金を確保し、より充実した教育や処遇改善を進めるには、個々の会社だけでなく業界一丸で料金問題に取り組むことが必要でした。

また、2007年の「秋田わか杉国体」では、当社を含む複数の警備会社が協力して安全を守りました。大会警備を経験した私たちは、同業者がお互いを思い良好な関係を築くことで生まれる力の大きさを実感していたのです。

「業界発展のためには、次世代を担う経営幹部や営業担当者が企業の垣根を越えて一堂に会し、労務単価などの課題について研究する機会が必要だ」という協会会長はじめ関係者の熱い思いを受け、青年部会はスタートしたのです。

<<幅広いテーマの研修会や通学路の見守り「登校指導」など、さまざまな活動を展開しました>>

より多くの若者が入ってくる魅力ある業界をめざす部会員一同の強い思いは、今も受け継がれて頼もしく感じます。

警備料金問題については、研究や意見交換などを通じ、適正価格の認識が会員に浸透していったと思います。公共工事設計労務単価の上昇、協会による適正取引推進などにより警備料金は上昇しています。

近年は人材確保が喫緊の課題となって、警備業の広報活動、イメージアップは重要です。そこで、青年部会の企画により秋田警協マスコットキャラクター「ガリット」が誕生しました。

<<ガリットは地元テレビのCMやイベントで活躍しています>>

「警備業をPRするイメージキャラクターを作成したい」と青年部会から理事会に提案があり、すぐに賛成しました。

イラストだけでなく「着ぐるみの制作」に飛躍した時は、前例がなく経費もかかるため慎重に検討すべきとの意見もありましたが、より効果的なPRにつながればと考えて賛成しました。

若い感性から生まれたアイデアが実を結ぶには関係者のバックアップが不可欠と考えます。

<<国際パトロール代表取締役社長に就任して6年目です>>

私は21歳で入社し、主に交通誘導警備に従事しました。「警備員という職業は、一生懸命やればこんなに大変な仕事はない」と先輩から言われ、その通りでした。大変さの中で警備業務の奥深さを知り、やりがいを感じたのです。

経営では、先代の齋藤義郎前社長(故人)の言葉「警備は人である」を肝に銘じて人材の育成に努めています。

資格取得を奨励し、特別講習に向けて丁寧な教育を行います。資格を取ると給与がアップする仕組みは勉強の意欲を高めるようです。技能向上と、警備員と接する方々が“ぬくもり、思いやり”を感じる警備を心掛けています。

全社員に「社員あっての会社です」と伝えて、居心地の良さを感じて長く働くことのできる職場づくりをめざしています。一人ひとりの活力、躍動が企業発展に結びつくものです。

<<サッカーJ2ブラウブリッツ秋田の試合に子供たちを招待するなど地域貢献を重ねています>>

警備の仕事は地域社会の多くの方々に協力いただいて成り立っています。利益を何らかの形で還元することは会社の使命と考えます。これからもお客さまを大切にするとともに地域社会に貢献して警備業発展をめざします。

警備業ヒューマン・インタビュー
――来日スターの身辺警護2024.11.11

伊丹久夫さん(東京パトロール 代表取締役)

縁に恵まれた警備人生

<<英国の4人組ロックバンド「クイーン」のボーカル、フレディ・マーキュリーが来日するたびに身辺警護を担当しました>>

クイーンを招いたプロダクションが、各メンバーを警護するボディーガードを探していると、イベント運営などを手掛けていた大学の先輩から紹介されました。1975年の初来日から6度の来日公演、86年にお忍びで来日した際の7回、私が身辺警護を担当しました。4号警備という言葉もない時代、外国人警護の経験もなかったのでクイーンの警護から多くを学びました。他のメンバーの担当は、剣道や空手で三段以上の隊員から適性があると見込んだ3人を選抜して臨みました。

初来日の時、シャイなフレディと打ち解けるには時間がかかりました。英語が苦手な私は寡黙なボディーガードとしてことさら対象者と話す必要はないのですが、信頼関係は築かなければなりません。高校3年の夏、剣道で全国優勝したので、通訳を介して「剣道のチャンピオンだ」と自己紹介したことから距離が縮まった気がします。フレディと私は46年9月生まれで、誕生日は彼が5日、私が12日生まれと1週間違いということもあり親しみを感じてもらえたのかもしれません。

日本の古美術が好きなフレディに「イターミ」と誘われ、買い物にも同行しました。伊万里焼や掛け軸などを好んでいました。初来日の警護を無事に果たしたことで当社がクイーン来日時の警護だけでなく、ほかの海外有名人の警護も任せてもらえるようになりました。ただ、フレディはほかのどの来日スターよりも親しみやすい人柄で、礼節を重んじ、日本のことを理解しようとしていたと思います。86年のお忍び旅行がフレディとの別れになるとは思いもよりませんでした。

2018年にフレディの伝記映画「ボヘミアン・ラプソディー」のヒットを機に日本でクイーンが再ブレイクした際、ファンのイベントが開かれました。語り部として当時の思い出を語ったことがあります。私が忘れていたエピソードでも、当時の写真や資料を保管している古株のファンが補足してくれました。中には「警護中の伊丹さんに怒鳴られた」という方もいました。私もまだ若く、フレディを守るために語気も荒かったのでしょう。「それも含めてよい思い出です」と聞いてホッとしています。

<<警備業を始めたきっかけは何だったのですか>>

大学の剣道部の先輩から誘われた長期休暇中のアルバイトが綜合警備保障のガードマンの仕事でした。現場は羽田空港で、格納庫に出入りする整備士の入退館を記録していました。墜落事故で回収された部品も保管され、警備は厳重でした。ほかの剣道部仲間は途中で辞めてしまい、私だけが残り、正社員から「お前は根性があるな」と見込まれ、そのまま採用に至りました。

当時の大学は学園紛争のため、講義は開かれませんでした。それならば、在学したまま就職してしまおうと。68年に綜警に入社し、退社して72年に東京パトロールを創業するまで、さまざまな業務を担当しました。主に施設警備の指令室で管制や警備員の配置などを担当しながら、テレビ局で番組出演者や資産家の身辺警護などといった臨時警備やアルバイト人材の確保も担当しました。

<<東京パトロール創業のきっかけは>>

意見が合わない上司と対立してしまい、綜警を去りました。今思えば若気の至りでした。会社を立ち上げられたのは出資してくれた元同僚や、弁護士を紹介してくれた母校の関係者に協力してもらえたからです。社名は俳優の宇津井健さんが出演していたドラマに登場する警備会社から拝借しました。

会社設立後も綜警の別の方から仕事を発注してもらうなど、応援していただきました。53年続けてくることができたのは、中学から始めた剣道で心と身体を鍛え、綜警で警備の基本を学び、多くの良い人とのご縁に恵まれたからだと思います。

<<会長を務める四谷警備業連絡協議会(四警協)が設立50周年を迎えました>>

四警協は警備業法施行2年後の1974年7月30日に警視庁四谷警察署管内に事業所を構える会員15社で発足しました。発足1か月後の8月30日に千代田区丸の内で起きた三菱重工をはじめとする連続企業爆破事件の影響で、警備業への関心と需要が高まった時代でした。四谷署が実施する広報活動には地元の交通安全や防犯などの団体と共に活動していて、地元の安全・安心を、連携して守ろうという強い気概で活動しています。

警備業ヒューマン・インタビュー
――駐車場管理「隊長」2024.11.01

中島鉄郎さん(五十嵐商会)

「パズル解く」気持ちよさ

<<5年前に五十嵐商会に入社されました>>

仕事を探していた時に、五十嵐商会が練馬区役所(東京都)の駐車場係を募集していました。自宅から近いということもあって、契約社員(1年更新)で働くことにしました。以来、2フロア(地下1階、地下2階)の駐車場管理に携わっています。練馬区役所では1台1台に「何番でお願いします」と声掛けをして、駐車場所を指定しています。

駐車スペースは60〜70台分。1日に500〜600台が入ってくる中、車があふれそうな時に上手に回せると、パズルを解くような気持ちよさがあります。

<<今年5月から隊長を務めています>>

車の配置を効率よく行うことは大切ですが、人を相手にしている仕事であることをスタッフにはよく言っています。年配の方や小さな子供を連れた方への気配りは大事なことです。「お客さま第一」でやっていれば、クレームは基本的に起きないと思うのです。

スタッフは18人いて、警察、自衛隊を定年退職した人や、設計士、美容師、農家だった人など、前職はさまざまです。マネジメントをする部分に関しては、過去に就いていた仕事と共通しているようにも思います。

<<入社後に2級の資格を取得した交通誘導警備、雑踏警備ではこれまで、どのような現場を経験しましたか>>

人手不足の時に、清掃工場の建設工事現場での交通誘導警備や成人式、マラソン大会の雑踏警備に携わりました。また、大規模国際イベントのゲート警備に携わり、金属探知機を使った手荷物検査などを行いました。

駐車場管理と雑踏警備は、お客さまにストレスを与えずにコントロールしていくという点で似ているように思います。

警備員の人手不足は極まっています。そのために工事ができないという話も聞きます。年配の方々のセカンドキャリアの選択肢が広がっていることもありますが、職業選択で警備員に目が向かないのは、いいイメージがないからかもしれません。でも、黙々と仕事をするのが合っている人や、にぎやかなイベントが好きな人など、個性を生かす居場所がある仕事だと思います。もう少しアピールできないかと考えています。

また警備員は「なくならない職業」ではないかと思っています。夜間の巡回はロボットになっていくでしょうが、人間がやらなければいけない部分はかなり残るのではないでしょうか。

年配のスタッフは毎日歩いて、お客さまとやりとりしていることもあって、皆さん元気。警備の仕事で「健康寿命」が延びるということは強みです。警備にはコンシェルジュの面もあるので、女性も向いていると思います。

<<20代の頃は雑誌の編集プロダクションで働いていました>>

大学在学中からマスメディア志望でした。大学4年の秋から、物を扱う雑誌の編集プロダクションでアルバイトを始め、卒業後も続けて、半年くらい経ってから正社員になりました。

編集部は5人くらいでした。中堅の出版社から発注を受けて、ページ(紙面)作りを担当していました。人手が少なく、取材、執筆からカメラマン、デザイナーの手配などまで、一人でやらなければなりません。男性向けでは時計や靴、カバンをメインに扱っていて、ブランドブームがあった時代は小売店に行って新製品を取材していました。雑誌の発行後にお店から「反響があった」「即完売した」と言われると、うれしかったです。

ただ仕事はハードで、ひと月で家に帰れる日は何日もなかったです。家には寝に帰るだけでした。校正が終わった後は忙しさから解放されますが、逆にメンタルが落ち込むことがありました。友達の結婚などをきっかけに、30歳を過ぎて人生について考えることがあり、「このままこの仕事をやっていてどうなるのだろう」と思うこともあって、入社から8年ほどで退職しました。

今、振り返ってみると、疲れ果てていたのだと思います。生活を大事にしないと、「仕事をして、休んで、遊んで」をバランスよくやらないと人間はだめになると思いますし、今は無理をしないように心掛けています。

<<リフレッシュはどのようにしていますか>>

九州が好きで旅行に行きます。住んでいるところにはない地形や食べ物、温泉が気に入っていて、年1回の九州旅行を続けています。