視点
資格手当2023.02.21
検定合格者の処遇改善を
「警備員急募、日勤の日給1万円」――。年度末の公共工事の繁忙期を控え、筆者の暮らす地域の新聞折り込みチラシにも、警備員募集の広告を目にする機会が増えた。
チラシの警備会社の求人内容をよく見ていくと、「2級検定合格者、日勤・日給1万600円」ともある。一般警備員との日給の差額は600円、つまり「資格手当・1日600円」となる。
土・日休みで月22日稼働と想定すると、日給1万600円の警備員の資格手当は月1万3200円となる。同じチラシの別の警備会社の求人には「資格手当、月7000円」との記述もあった。
インターネットで調べてみると、検定合格警備員に月2万円超の手当を支給する会社もあるが、多くはチラシの会社と同様の額だろう。
以前から警備の質向上のために業界を挙げて検定資格取得を推進するとともに、検定合格警備員の地位向上などが声高に叫ばれている。果たして月1万円前後の資格手当が、国家資格である警備検定の対価として妥当なのか、警備員が「検定を取得しよう」という動機となり得るのか――。疑問を抱くのは筆者だけではないはずだ。
警備業と同様、慢性的な人手不足に苦しむ建設業。都内の大手建設会社の労務担当者と意見を交わす機会を得た。
同社では下請けの専門工事業者の職長をランク付けし、元請け会社として資格手当を支給しているという。ランク付けの基本となる資格は「とび」や「大工」などの建設専門職種の団体が設けている「登録基幹技能者」資格に加え、「経験年数」「従事してきた工事の実績」など元請けが設定する一定の要件だ。これを満たせば最上級ランクの職長には「日額」3000円の手当を支給している。月22日稼働で6万6000円の資格手当となる。
話を聞いた担当者は「3000円は最近ではザラです。スーパーゼネコンでは4000円、5000円の手当を出すところもあるようです。それでなければ優秀な技能者の“囲い込み”はできません」と、同社でも手当引き上げを検討しているという。警備業との単純な比較はできないが、資格に対する考え方、処遇のあり方は参考にしたい。
労務単価は賃金の結果
低廉な資格手当をはじめ警備業の低賃金の要因として挙げられるのが国の「公共工事設計労務単価」の低さだ。
月内にも2023年度の新単価が国土交通省から公表される。新単価は昨年度同様、最低賃金引き上げや政府方針などを受けて一定の引き上げが行われると思われる。
一方で、同単価は前年の10月に国交省が行った公共工事に従事した警備員に支払われた賃金の実態調査「公共工事労務費調査」の結果でもある。労務単価を引き上げるには賃金引き上げが不可欠なのだ。
昨年の過去最高の最賃引き上げ、政府の後押しを受けた全国警備業協会の「適正取引推進等に向けた自主行動計画」の改訂、政府による「価格交渉促進月間」の制定など警備料金引き上げに向けた環境は整いつつある。
今こそ経営者には、警備業の未来を見据え、料金引き上げに果敢に取り組んでほしい。そして質の高い警備サービス提供を担う検定合格警備員の処遇を改善し、多くの検定合格者を育ててほしい。
【休徳克幸】
災害支援協定2023.02.11
中身充実させ「再締結」を
10年に一度の“最強寒波”が猛威を振るっている。北日本・日本海側では豪雪・路面凍結による車のスリップ事故や立ち往生が相次いだ。日本列島は地形や気候などの条件から自然災害が起こりやすい国土といわれる。
生活安全産業として社会に認知される警備業は、災害対応にも期待が寄せられている。47都道府県の警備業協会は1995年の阪神淡路大震災を機に、自治体や警察と災害支援協定を締結した。しかし取り決めが不十分だったことから、東日本大震災などの警備員の出動はボランティアで行われてきた。協定内容を充実させ、早急に再締結する必要がある。
岡山警協は昨年12月、県・県警本部と「災害支援協定・細目協定」を締結した。これまでの災害支援協定の不備を補い実効性の高い内容に改正したものだ。それは2018年の西日本豪雨で岡山警協が県・県警と協議し初の有償出動を果たしたときの協定内容が基となっている。ポイントは「適正価格による有償出動」「警備業務の内容」「警備員の補償」の3項目だ。
「適正価格」は「出動直前の公共工事設計労務単価を使用し契約時に関係者と協議して決める」が記されている。
「業務内容」は「緊急交通路確保のための交通誘導警備、被災地や避難所の交通誘導警備、避難所犯罪防止のための施設警備、そのほか県が必要と認める警備」――の4点が明示された。
「警備員の補償」は「警備員が業務従事中に死亡・負傷・病気にかかった場合には、労働関係法令が適用できる」が記された。
協定書の各項目は要所を押さえながらも規定せず、状況や要請に応じて交渉できる余地を残している。そして岡山警協の松尾会長が部会長を務める全警協「災害時等の役割作業部会」で作成した災害支援協定の「ひな形」に沿った内容でもある。そのひな形は、各警備業協会から意見を募って反映させ完成した労作だ。
全警協の同作業部会は協定書のほか「警備員の安全確保のためのガイドライン」も作成した。西日本豪雨の際、交通規制業務に従事した警備員が増水した河川に飲まれ2人が殉職した事故が作成のきっかけとなった。ガイドラインには悲惨な事故を二度と繰り返さないよう警備員の命を守る指針が示されてある。主旨は、自治体が避難指示を発令する「レベル4」となった場合、また現場の状況から危険がひっ迫しているときは、警備本部の指示を待たず自己判断で直ちに避難することだ。
松尾会長は昨秋、近畿地区連が開いた「広域支援対策検討会」で災害支援の取り組みを講演し近畿6府県の会長らが聴講した。同地区連の宇多会長は「災害時には警備員の避難するタイミングが重要であり、協定書に適正料金による有償出動を記載する必要があることを再確認しました」と感想を述べた。大阪警協・豊田会長は、協会内で災害支援協定改正の協議を進めていることを発表した。
神奈川警協の岩野会長も賀詞交歓会で「災害支援協定を締結したい」意向を述べた。岡山警協による前例ができて協議が進みやすくなり「協定再締結」の動きは各協会に広がりそうだ。
温暖化で集中豪雨や台風は規模を拡大し大震災発生は高い確率で近づいている。各協会は発災時の出動要請を見据え協定の再締結を実現してほしい。
【瀬戸雅彦】
評伝2023.02.01
発想力と決断 変革貫く
豊かな発想、決断、そして実行力――。未開の市場を切り開くために変革のエネルギーを燃やし続けた人だった。
飯田亮さんが手がけた新機軸の中で第一番は、感知器と通信回線を利用した機械警備システムであろう。センサーで警備の異常を感知して警備員が駆け付ける「SP(セキュリティー・パトロール)アラームシステム」だ。
盟友・戸田壽一さんと日本警備保障を創業して4年目のこと。東京オリンピックの代々木・選手村警備、自社をモデルとしたテレビドラマ「ザ・ガードマン」で実績と知名度を上げていた。巡回警備と常駐警備が2本柱である。飯田さんは考えた。
契約数は順調に伸びている。社員も増えている。将来を考えると警務士(当時、セコムは警備員をこう呼んだ)は何万人が必要になるだろう。異常が発生していない時まで見張っている必要はない。異常発生の時だけ駆けつければよい。
飯田さんは、外国企業がセンサーを製品化しているのを知っていて自ら動いた。まずは電気メーカー。センサーが感知した異常を電気信号として送り出す制御器(コントローラー)の製作協議である。ついで、当時の電電公社(現NTT)へ専用回線の使用を申請したが、これが難題、交渉に日参したという。
SPアラームの原型が完成すると、箱根のホテルで支社長会議を開いた。約30人の幹部を前にこう宣言したという。「巡回警備は廃止する。常駐警備も増やさない。今後の営業はSPアラーム一本の機械警備で行く」。
会議はいつも自由闊達を旨とした。多くが「会社は人的警備で発展した。止めるのはもったいない」だった。採否の決定を求めると、賛成に手を挙げる幹部は一人もいなかった。飯田さんは言った。「そうか、全員が反対か。オレはやる。みんな、ついてきてくれ!」。
SPアラームは後年、企業向けに加え家庭市場に進出した。日本初の家庭用安全システム「ホームセキュリティ」である。ミスター・プロ野球、長嶋茂雄監督がテレビCMで語りかける「セコムしてますか」も効いた。このコピー、飯田さんの思いつきとして知る人ぞ知るだ。
ある宴席。芸妓さんが朋輩に「△△ちゃん、セコムしてきた?」と話しているのを聞いた。「これだ!長嶋さんにやってもらおう」と直感。しゃれっ気のあるミスターも大乗り気で実現したのだった。
新しい科学研究を支援
飯田さんとの出会いは、社名を「セコム」に替えたころだった。私は毎日新聞経済部で「財界記者クラブ」の担当となった。経済団体連合会、日本経営者団体連盟(のちに経団連と統合)、日本商工会議所、経済同友会が取材先である。飯田さんは同友会の幹事だった。
同友会は、他の団体と違って全員が個人会員で、女性経営者にも門戸を開き、経済問題に対する提言や意見で政権批判を恐れないグループだった。飯田さんは、ウシオ電機の牛尾治朗、富士ゼロックスの小林陽太郎(故人)、秩父セメントの諸井虔(故人)各幹事氏と合わせ<開かれた同友会・若手の論客4人衆>と呼ばれて異彩を放つ一人だった。
「セコム科学技術振興財団」の設立も記さねばならない。1979年、飯田さんは資金を拠出して、科学技術研究の助成を目的に民間財団を誕生させた。セキュリティー、医療、情報、防災研究の助成が目的だった。
公益財団に移行した現在、一般研究、特定領域研究、挑戦的研究が助成の3本柱となった。ここでも飯田さんらしいのは、40歳未満の研究者を対象とした挑戦的研究だ。科学技術予算は伸び悩み、40歳未満の大学教員の割合は減少、「自ら考えた研究テーマに挑戦できない」という若手研究者を支援する部門だった。
20年の3月下旬、私は本社ビルの18階にあった最高顧問室を訪ねた。「64年・東京五輪」、1年延期が決まった「東京2020」への思いを聞くためだった。広いガラス部屋からは、選手村跡地の代々木公園を望むことができた。飯田さんは終始、穏やかな口調でユーモアを交え、小一時間にわたって対応してくれた。
「あの公園を見るにつけ、選手村の警備を思い出すよ。私と仲間にとって、あそこは<<古戦場>>なんだよ……自分で言うのもなんだが、新しいものを作るのだという意気込みと迫力は並じゃなかったと思うよ……」――飯田さんはそう言った。
【六車 護】