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「知」に備えあれば憂いなし

潮田道夫の複眼時評

潮田道夫 プロフィール
東京大学経済学部卒、毎日新聞社に入社。経済部記者、ワシントン特派員、経済部長、論説委員長などを歴任し退社。現在、帝京大学教授で毎日新聞客員論説委員。内外の諸問題を軽妙な筆致で考察する「名うてのコラムニスト」として知られています。著書に「不機嫌なアメリカ人」(日本評論社刊)、「追いやられる日本」(毎日新聞社刊)など。

隕石と原発のリスク学2019.01.21

-合理的だが不合理なわたしたち-

インドの大学構内で隕石の直撃を受け、40歳のバス運転手が死亡というニュースが3年前流れた。隕石にあたって人が死んだ初の事例とされた。「インド人もびっくり」である。しかし、米航空宇宙局(NASA)は現場写真から「宇宙からの物体による現象ではない」と否定した。

では隕石落下で死者が出たことがないのかというと、そうでもないらしい。1825年にやはりインドであるが、男性1人が死亡、女性1人がけがをしているという。「インターナショナル・コメット・クォータリー」に出ている。暇な人は次のウェブページに隕石落下の一覧表が出ているから見てください。http://www.icq.eps.harvard.edu/meteorites-1.html

隕石の衝突は数年おきに各地で観察されている。案外多い。ただし死者はインドの例以外出ていない。日本はどうかというと、これはウィキペディアだが、これまで50個ほどの落下が確認されているそうだ。1992年には松江市美保関町で民家の屋根を突き破って床下に到達した。危ないなあ。

しかし、われわれは出かけるときに隕石が降ってこないかどうか、空を観察したりしない。そんなことアホくさいからである。米テュレーン大学のネルソン教授によれば、人が一生の間に隕石や小惑星の衝突で死亡する確率は160万分の1だそうだから、だれも気にしないのだ。

リスク評価の専門家、東大の岸本充生教授によると「安全とは『許容できないリスク』がないこと」と定義される。では「許容できるリスク」というのがあるわけである。

その代表例が縷々述べてきた「隕石に直撃されて死ぬおそれ」である。直撃されたら確実に死ぬが、当たる可能性は非常に小さいから「許容できる」。隕石に関してわれわれは「安全」である。

ものの本によれば、自動車事故に遭う確率は90分の1、火事に遭う確率は250分の1、サメに襲われる確率は800万分の1だそうだ。道路を横断するときは左右をよく確かめ、出かけるときは火をつけっぱなしでないか確認する。しかし、海水浴に行ってサメがいないかきょろきょろしたりはしない。確率がわれわれの頭の中に入っている。

さて、ここで少し微妙な問題に触れる。さきほどの安全の定義は「リスク=被害の大きさ×確率」と言い換えることができるだろう。原発事故は直接の被曝死はこれまでの経験では小さいが、避難、除染、廃炉等により膨大な人的・経済的被害が生じる。だが、それが起きて我々が被害を被る確率は小さい。だからリスクはさほど大きくない。

石炭火力や自動車の排気ガスによる大気汚染で、世界では毎年100万人が死んでいる。政策としては使える原発はさっさと動かして石炭火力をやめるのが正しい。しかし、原発廃止論が優勢でそうはならない。

池田信夫という経済学者が言うには、人は「恐怖」という感情でリスク管理をしている生物だそうだ。理性で行動するのでなく恐怖で反射的に行動してきた。だからこそ、人類は生存競争を生き抜いてきた。原発廃止のような「ゼロリスク」を求めるのはわれわれの行動原理が恐怖だからだ。それは個人の行動としては合理的なのだが、社会全体の行動としては不合理になる。

政治は社会全体の利益、合理性を追求すべきだが、われわれの民主主義は個人の投票の集積だから不合理な決定に至る。それを変えるにはマスコミが合理的報道をすればいいのだが、購読者・視聴者は個人だから、個人的合理性に追従するのである。

やれやれ、こうなればいっそのこと、天気予報の後に隕石予報もやったらどうだ。