潮田道夫の複眼時評
潮田道夫 プロフィール |
東京大学経済学部卒、毎日新聞社に入社。経済部記者、ワシントン特派員、経済部長、論説委員長などを歴任し退社。現在、毎日新聞客員論説委員。内外の諸問題を軽妙な筆致で考察する「名うてのコラムニスト」として知られています。著書に「不機嫌なアメリカ人」(日本評論社刊)、「追いやられる日本」(毎日新聞社刊)など。 |
サイレンサー付き拳銃でCEO射殺
―医療保険金支払い拒否の帰結?―2024.12.21
ニューヨークのマンハッタンで大手保険会社「ユナイテッド・ヘルスケア」のCEO(最高経営責任者)が銃撃され死亡した事件。ついに起きたか、という印象である。アメリカの医療保険制度の矛盾・欠陥の帰結というほかない。
監視カメラの映像でサイレンサー付きの拳銃で撃たれていたから、最初、殺し屋説が出ていた。しかし、犯人を捕まえてみたらアイビーリーグの名門ペンシルバニア大学で卒業生代表にもなった男だった。動機はまだ解明されていない。一説には、保険会社が医療費をちゃんと払わないため男の母親が死んでしまった。それを恨んでの犯行、という。祖父母が経営する老人ホームで、多くの老人が保険会社の支払い拒否に苦しんでいるのを見て、義憤に駆られたともいう。
現場に残された薬莢にマジックインキで「Deny,Delay,Depose」と書かれていた。これは2010年に出版された保険会社を告発する本『Delay,Deny,Defend』が下敷きだろう。米国では老人対象のメディケア、貧困層むけのメディケイドをのぞき、公的医療保険制度がない。このため一般市民は会社が用意する民間の医療保険で病気に備える。しかし、この保険料が高いうえに保険会社はアレやこれや言い立てて、なかなか医療費を払ってくれない。
書名のDelay,Deny,Defendとは保険会社の経営方針を示している。つまり保険会社は「まず保険金の支払いを遅らせる、なるべく支払いを拒否する、訴えられたら弁護士が応戦する」というわけだ。
ユナイテッドヘルスケア社は業界最大手だが、支払い否認率でも業界トップの32%だった。業界平均は16%である。被害者のCEOブライアン・トンプソン氏は好業績を受けて年収1020万ドル(約15億3000万円)を得ていた。
ニューヨークの日本領事館のホームページに在留邦人・旅行者向けの注意書きが出ている。「マンハッタン地区のクリニックの初診料は150ドルから300ドル、専門医を受診すると200ドルから500ドル、入院した場合は室料だけで1日約2000ドルから3000ドル程度かかる。急性虫垂炎で入院・手術(1日入院)を受けた場合は、1万ドル以上が請求される」。1万ドルといえば150万円ではないか。だから保険なしでは危なくて暮らせない。しかし、保険料が高いから無保険の米国人が人口の8.4%、約2740万人もいる。
問題は保険があるから安心とはいかない点だ。大企業の重役用の医療保険だと、どこの医療機関でも自由に選べるし最先端治療がしてもらえる。費用は全額会社持ち。しかしHMO(健康医療の団体)などの一般的な保険では、保険会社が組織する医師・病院のネットワークの中でしか面倒を見てもらえない。
さらに、保険会社は支払いをグズる。支払いを伸ばせばその間の金利を稼げるからだ。また、たとえば治療費が2500ドル未満だと保険金が出ないとか、検査や薬代は保険の対象外とか制限が多い。一方、病院は足元を見て法外な請求書をふっかける。払わないと債権をサルベージ会社に売却する。その結果、訴訟で家の差し押さえを食うなどというのはザラだ。自己破産者が多数出ている。
さてニューヨーク総領事館の医療費に関する注意喚起。その末尾の数節を引用してこの小文を終わろう。
「このような高額医療費に対しては、十分な補償額の海外旅行保険等に加入して備えておく必要があるでしょう。医療費や言葉(意志疎通)の面から、また退院後の身の回りの世話のことを考えあわせれば、日本に帰国して診療を受けることも一つの選択です。医療費だけを考えても、航空運賃を負担したとしても帰国した方が経済的負担はかなり少なくすみます。勿論、帰国できるかどうかは病状が緊急性を要しない場合であり、その判断は医師に任せるべきです。」
慎重な言い回しだが「病気になったら日本に帰国して病院に行ったほうがいいよ」と言っているとしか読めない。そうかもしれない。私も帰国をお勧めする。