警備保障タイムズ下層イメージ画像

「知」に備えあれば憂いなし

潮田道夫の複眼時評

潮田道夫 プロフィール
東京大学経済学部卒、毎日新聞社に入社。経済部記者、ワシントン特派員、経済部長、論説委員長などを歴任し退社。現在、毎日新聞客員論説委員。内外の諸問題を軽妙な筆致で考察する「名うてのコラムニスト」として知られています。著書に「不機嫌なアメリカ人」(日本評論社刊)、「追いやられる日本」(毎日新聞社刊)など。

コロナ禍で「世界的食糧危機」は起きるか
-日本とは縁遠い最貧国問題-2020.08.21

新型コロナウイルスの流行は簡単に治まりそうもない。世界経済が大きな影響を受けているが、その中で気になるのが「世界的食糧危機」説である。

国連食糧農業機関(FAO)の屈事務局長と世界保健機構(WHO)のテドロス事務局長、世界貿易機関(WTO)のアゼベド事務局長は4月、連名で共同声明を出した。新型コロナウイルスのパンデミックで「食料品の入手可能性への懸念から輸出制限が起きて国際市場で食料品不足が起きかねない」と言うのである。

経済活動で世界が生み出す付加価値の総額(GDP)は、来年までに約12兆5000億ドル(約1300兆円)が失われると国際通貨基金(IMF)は試算している。あらゆる産業で生産力が打撃を受けた、農業も例外ではない。

悪い時には悪いことが重なるもので、サバクトビバッタによる蝗害がアフリカのエチオピア、ソマリアなど「アフリカの角」から海を越えてパキスタン、インドに広がった。FAOは今年東アフリカで2500万人以上が食糧危機に直面すると予測する。

ところがである。これまでのところ、そういうふうにコトは動いていない。

シカゴ穀物市場の値動きを見ると、3大農産物である大豆、小麦、トウモロコシいずれもここ数年の安値圏のままである。日本はひどい豪雨に悩まされたが、世界的には天候が順調で8年連続の記録的豊作が予想されている。米国農務省の需給報告(7月)によれば、2020〜21年度の世界穀物生産量は27億6000万トンで過去最高である。相場に大きく影響する穀物在庫も8億7000万トン台まで積み上がる。FAOやWHOが何を言おうが価格は上昇しそうもない。

ここまで読んで、読者は「世界的食糧危機」の意味するものが、わかったと思う。先進国では食糧危機はまず起きない。食糧危機は最貧国が抱えるリスクなのである。

国連組織、世界食糧計画(WFP)は今年、1億3500万人から2億5000万人が飢餓状態に陥る可能性があるという。特に危ない国としてイエメン、コンゴ、アフガニスタン、ヴェネズエラ、エチオピア、南スーダン、スーダン、シリア、ナイジェリア、ハイチの10か国の名前を挙げた。

食糧危機が発生するのは(1)食料を買うカネがない(2)食料輸送が滞る――場合である。名前のあがった10か国には、その両方が当てはまる。彼らはわずかな収入の全てを食費につぎ込んでいるので、食糧とりわけ穀物の価格が少しでも上がると、たちまち窮してしまう。コロナ危機での雇用機会の減少でピンチに直面している。都市封鎖(ロックダウン)しかコロナ禍に対応する手段がない国はさらに状況が困難になる。

国際機関が懸念しているのは「輸出制限」だった。2008年に穀物価格が3倍に跳ね上がったことがある。トウモロコシの大輸出国の米国で、ガソリンの代用品であるエタノールの原料に収穫されたトウモロコシをまわしたためだ。玉突き現象で大豆、小麦、コメの価格も上昇した。しかし、日本の食品の価格は2.6パーセント上がっただけ。我々が口にする食品のコストのほとんどは加工・流通費であって原料費は2パーセントでしかないからだ。先進国はどこもそう。

しかし、インドをはじめ途上国は穀物の輸出禁止に踏み切った。放置すると農家は価格の高い輸出に穀物を回す。すると国内価格が跳ね上がって貧困層が穀物を買えなくなってしまうからだ。インドにとってやむを得ない選択だったが、食料の輸出禁止は価格の高騰に拍車をかける。コロナ禍が世界経済の不確実性を高めているのは明らかで、一つ間違えると食料輸出禁止が世界に広がりかねない。

料は足りているのである。十分にある。問題は貧困問題であり治安問題である。新型コロナウイルスのパンデミックは貧困と治安という最貧国の泣き所を直撃する。日本で食糧危機は起きない。しかし、最貧国にとってはまさに「そこにある危機」なのである。