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「知」に備えあれば憂いなし

潮田道夫の複眼時評

潮田道夫 プロフィール
東京大学経済学部卒、毎日新聞社に入社。経済部記者、ワシントン特派員、経済部長、論説委員長などを歴任し退社。現在、毎日新聞客員論説委員。内外の諸問題を軽妙な筆致で考察する「名うてのコラムニスト」として知られています。著書に「不機嫌なアメリカ人」(日本評論社刊)、「追いやられる日本」(毎日新聞社刊)など。

日本製鉄のUSスチール買収
―2兆円は高いか安いか―2024.01.01

日本製鉄が米鉄鋼大手USスチールを141億ドル(約2兆円)で買収すると発表した。USスチールは起源をたどれば、あの「モルガン」と「カーネギー」に行き着く超名門。かつては世界最大の企業だった。

ただし、現在のUSスチールの粗鋼生産量は日鉄の3割程度で全米3位、世界27位だ。しかも政府の保護に甘えた高コスト体質が指摘される。

そのような企業だが、なお、日鉄は買収に動いた。

理由の第1は「経済安保」対応だろう。米国は「製造業の国内回帰」を強力に進めている。中国に頼らないサプライチェーンの構築である。また、それによる雇用創出は「票」を投じてもらう最強の武器でもある。この流れはちょっとやそっとでは変わらない。

外国企業からすれば、米国に生産拠点を持たなければいつ市場から締め出されるかわからない。トランプ政権もバイデン政権も「バイアメリカン」政策を進める。税制等で内外製品を露骨に差別し始めた。日鉄はこの買収で米国の保護主義に左右されない体制ができる。USスチールが北米に持つ鉄鉱山の採掘利権も大きい。

理由の第2は「規模のメリット」だ。買収後の日鉄の生産規模は年間6600万トンから8600万トンに拡大する。このうち日本国内が4700万トン(55%)、海外が3900万トン(45%)だ。日鉄は「1億トン」で規模の利益が働き、グローバル企業として安定すると見ている。それに手が届く規模となる。国内市場が縮小していく中、先進国最大の市場・米国でのシェア拡大のチャンスを見逃すわけにいかない。

第3に「電炉技術」だ。一般に鉄鉱石とコークスを原料とする高炉の方がクズ鉄(スクラップ)が原料の電炉より高級な鋼板を作れる。日鉄は電炉をほとんど持たず、高炉で世界最高級の自動車用鋼板などを作ってきた。しかし、CO2削減が至上命題となった現在、CO2排出量の少ない電炉への切り替えを急ぐ必要がある。USスチールの高炉はダメだが、南部アーカンソー州「ビッグ・リバー工場」の電炉が素晴らしい。電気自動車(EV)用高級鋼を生産している。この技術が手に入る。

とはいうものの、この買収の先行きは険しい。

まず、2兆円は高過ぎないかという問題。直前まで米鉄鋼クリーブランド・クリフスがUSスチールと買収交渉をしていたが、買値はざっと1兆円だった。日鉄には3メガ銀行が協調融資するというが、2倍も払う価値があるのか微妙だ。日鉄の株価は下げている。

USスチールはずっと赤字だった。しかし、トランプ前大統領が中国製品を締め出した結果、米国の鋼材価格が急騰、そのおかげで黒字転換したのである(鋼材1トンの価格が東アジアでは700ドル、米国では1100ドル)。つまり、米国の保護主義のおかげでやっと息をしている企業なのだ。

もっと厄介なのは、この買収劇が米大統領選とからんで政治問題化してしまったこと。全米鉄鋼労組(USW)はクリーブランド・クリフスによる買収には賛成していたが、日鉄による買収には反対を表明した。日本企業は一般に「反労組」と見なされている。米国に進出した日本車メーカーには労組が存在しない。USWが日鉄という未知の経営体の侵入を嫌うのは当然だろう。

連邦議会の上下議員も民主党共和党を問わず「安全保障上の懸念」などを言い立てている。鉄鋼は軍需と緊密に結びついており、同盟国ではあっても米企業と同一とは見なされない。イエレン財務長官が議長を務める対米外国投資委員会(CFIUS)で買収の可否が審査されることになったが、先行きは不透明だ。

鉄鋼産業が集まるペンシルベニア州やオハイオ州は大統領選のカギを握るスイング・ステート(大統領選で民主・共和のどちらにも揺れる州)だ。バイデン大統領はかねて「労組に最も理解がある大統領」を自認しているだけに、神経質にならざるを得ないようだ。