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「知」に備えあれば憂いなし

潮田道夫の複眼時評

潮田道夫 プロフィール
東京大学経済学部卒、毎日新聞社に入社。経済部記者、ワシントン特派員、経済部長、論説委員長などを歴任し退社。現在、毎日新聞客員論説委員。内外の諸問題を軽妙な筆致で考察する「名うてのコラムニスト」として知られています。著書に「不機嫌なアメリカ人」(日本評論社刊)、「追いやられる日本」(毎日新聞社刊)など。

原発回帰を決めた岸田首相
-サルには戻れない?-2022.09.11

福島原発の事故の翌年、週刊新潮が吉本隆明のロングインタビューを掲載した。見出しがすごかった。「『反原発』で猿になる!」。

若い人は知らないだろうが、戦後の左翼運動の教祖の一人である。詩人であり思想家でもあった。元々は理科系で東京工業大学の無機化学出身だ。熱狂的なファンが少なくなかった。この特集が出て2か月後に死んだ。

それでなぜ「サル」なのか。引用する。

「恐怖心を100%取り除きたいと言うのなら、原発を完全に放棄する以外に方法はありません。それはどんな人でも分かっている。しかし、止めてしまったらどうなるのか。恐怖感は消えるでしょうが、文明を発展させてきた長年の東京工業大学無機化学教室は水泡に帰してしまう。人類が培ってきた核開発の技術もすべて意味がなくなってしまう。それは人間が猿から別れて発達し、今日まで行ってきた営みを否定することと同じなんです」

これをどう読むか、甲論乙駁こうろんおつばくがあった。「反原発」は「反科学」であり、それは科学の学徒として受け入れられない。吉本はそう言っているのだろう。科学の迷走や暴走の例を知らないはずがないが、反原発は人間の歩みとして間違いだという。サルに戻るのか?と。

そういえば、手塚治虫の「鉄腕アトム」は出力10万馬力の原子炉で動くロボットだった。放射能は大丈夫か?と妻・星江さんが心配すると、アトムを作った天馬博士はいう。「昔の原子力船じゃない、放射能のカスなんか出さんよ」。阪大医学部卒の手塚治虫。ここでは原発を否定していない。

さて、岸田文雄首相である。「科学の子」という話は聞いたことがないが、「原発回帰」を打ち出した。

何を聞かれても「検討します」と答えるだけで、いっこうに物事を決めようとしない。だから“遣唐使”などと揶揄されていた岸田首相が、今回は原発政策で思い切った決断をした。

福島の事故以来、どの首相も原発をどうするのか態度が曖昧で、再稼働にも及び腰だった。それがこれまでに再稼働した10基に加え、7基の原発も来夏までに再稼働させる、さらに「次世代革新炉の開発・建設」「運転期間の延長」にも取り掛かる。

この大転換を仕掛けたのは岸田首相が新たに設置した「GX(グリーントランスフォーメーション)実行会議」だ。「産業革命以来の化石燃料中心の経済・社会、産業構造をクリーンエネルギー中心に移行させ、経済社会システム全体の変革」を行うそうだが、眼目は原発回帰である。

仕掛け人は嶋田隆・首席秘書官と言われる。開成高校で首相の2期後輩。経産省でエネルギー畑が長く事務次官を経験した大物だ。ついでに言えば、安倍晋三政権の秘書官で「官邸のラスプーチン」と言われた今井直哉氏は経産省同期である。

今回の方針転換で注目されるのは、これまでやらないと言ってきた原発の新増設に踏み出した点である。公式決定されたわけではないが、新聞やテレビは一斉にそう報じている。つまり記者への背景説明で資源エネルギー庁が言質をとられないように、しかし、その気であることを上手に伝えたのであろう。

新増設の原子炉候補は小型モジュール炉(SMR)であるらしい。そこまでシナリオは描かれている。原子炉は通常、一基100〜120万キロワット規模だが、SMRは数万〜30万キロワット程度と小型で並列配置する。地下や水中に設置するなどすれば安全性も高く、コストも抑えることが可能だという。

実のところ世界では原発回帰が進んでいる。世界原子力協会(WNA)によると、世界で55基の建設計画が進行しており、中長期では新たに100基以上の建設が見込まれる。とりわけSMRへの注目が高く、米、英、カナダ、ロシア、中国、フランス、ポーランドなどで導入が始まっている。日本は日立製作所と三菱重工に技術はあるから追い付けると見ているようだ。

さて、皆さんにとってこれは朗報か悲報か。私は文系だけれど「科学の子」である。