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クローズUP

青年・女性部会長会議2018.3.11

将来を見据えて議論

全国警備業協会(青山幸恭会長)は3月5日、2回目の「全国青年部会長・女性部会長会議」を協会内で開催した。

青山会長は、若い感性とアイデア、女性の視点を活かした取り組みの重要性を強調し、業界の将来を見据えた議論を呼び掛けた。

出席者は「青年部会の在るべき姿、果たすべき役割」、「業界の将来展望」の2テーマで話し合った。人手不足の克服に向けた警備業のPRやイメージチェンジ、警備とAI(人工知能)の関係性などを議論した。

同会議は、各部会が他県の活動状況を参考に、業界発展に向けた議論を行う機会として昨年3月に初開催。以降、青年部会は東京、山形、山梨、沖縄、石川の5警協で発足、全国では18を数える。青森警協、富山警協も年内設立を検討中だ。女性部会は岐阜警協が設立準備を進めている。

特集ワイド 「不安も抱き 警備業の震災復興」2018.3.11

2011年3月の東日本大震災から7年、被災地の復興も急ピッチで進んでいるかのように見える。復興関連工事に伴い警備業、特に交通誘導警備業務は多忙のようだ。一方で、わが国全体を覆う「人手不足」は、被災地にも深刻な影を落としている。加えて、復興のために現在、政策的に引き上げられている労務単価も、復興期間終了後にどうなるか不明だ。そんな状況にありながらも地元の復興のために奮闘している被災地警備業の“今”に迫った。

今回訪ねたのは岩手県宮古市と宮城県石巻市。いずれも津波で大きな被害が発生した場所だ。宮古市は最大で震度5強の揺れと、その後に最大波8.5メートル以上の津波に襲われた。死亡者数は517人、行方不明者は94人だ。住宅の被害は全壊や半壊を含め9088棟に達した。石巻市でも、津波やその後に発生した津波火災で甚大な被害が発生した。関連死も含めると3553人が死亡し、行方不明者は423人に上る(2月6日現在)。

両市の街中を歩くと、津波で大きな被害があったとは思えないほど復興が進んでいる。街の至る所に設置されている津波到達を示すプレートで初めて、ここに津波が来たことが分かる。

国道や県道では多くの大型ダンプなどの工事車両が行き交い、復興関連工事が各所で行われていることが分かる。宮古市へ向かう途中で通行した国道106号沿いでは、三陸沿岸道路と東北縦貫自動車道を結ぶ約100キロメートルの復興支援道路「宮古盛岡横断道路」の建設が急ピッチで進められ、至る所で交通誘導を行う警備員を見掛けた。

政府は、震災直後から2020(平成32)年度までの10年間を期間とする復興を推進中だ。2015年度までの5年間の「集中復興期間」が終わり、現在は2020年度までの「復興・創生期間」。復興の大きな節目が迫っている。同時に地元警備業にも将来への不安が広がっているのを感じた。

深刻な「人手不足」
新生警備保障 専務取締役 吉田 繭さん

7年前の“あの日”、新生警備保障(岩手県宮古市、吉田恵美子代表取締役)の吉田繭専務取締役は、大槌町内のスーパーの駐車場で“その時”を迎えた。

入院している隊員から書類に「ハンコ」をもらうため、最初は病院のある大船渡市へ行く予定だった。しかし、代わりにハンコをもらってくれた営業所の所長と釜石市内で落ち合い、帰路へ着くところだった。

初めて経験する激しい揺れに、動揺した吉田さんが最初に思ったのは「早く宮古に帰ろう」。周囲には、なぜかスーパー屋上に向かう多くの人が見えたが、無我夢中で車を発進させた。

途中、浪板海岸付近の窪地となっているあたりを走行中、道路わきで海の方向を指さす男性を見掛けた。不審に思い、通り過ぎてからバックミラーで後方を見ると、大きな波が押し寄せ、既に男性の姿はなかった。

津波だ――。慌てて車のテレビのスイッチを入れて、その時初めて事態が理解できた。

山田町に差し掛かったあたりで、道は海岸沿いの街なかを通るルートと山手を通るルートの二手に分かれた。街で暮らす祖母のことが気になったが、「既に避難しているだろう」と気持ちを切り替え、山手のルートを選んだ。

山手のルートは高架式の道路。ルートも終わりに差し掛かり、高架が徐々に低くなるあたりで、前方には津波が押し寄せてきていた。高架上で立ち往生する吉田さんたちの車からは、津波に飲み込まれて流されている人が多く見える。自力でガードレールにしがみ付く人、既に息絶えている人たちを、難を逃れた他のドライバーたちと吉田さんは引き上げ続けた。

絶え間ない余震と暗闇の街方向から聞こえてくる爆発音。恐怖と寒さに耐えながら、一夜を高架上の車の中で過ごした。翌日、やっとの思いで宮古市内の会社に辿り着いた吉田さんの姿を見て、母親でもある社長は、椅子から崩れ落ちた。

会社は川の近くにあったが津波による浸水もなく無事だった。家を流され、家族が亡くなった人もいたが、社員は全員無事だった。家を流された社員には事務所を避難所代わりに開放した。しかし、全員の安否確認には約2か月要した。

仕事は多いのに

震災直後から地元の建設会社から出動の要請が相次いた。動ける10人ほどの隊員で対応したものの、車で現場に向かおうにもガソリンが手に入らない。夜通しスタンドで並んだり、ホームセンターで自転車を調達したりした。通常業務に戻るまで約半年掛った。

以前は50人ほどいた隊員が、震災を機に精神的・体力的な理由で10人が辞めていった。

7年経った今でも仕事は対応できないほどに多い。スポットの仕事を断ることもしょっちゅうだ。料金も復興関係の仕事は、他に比べて高い。

しかし、警備員になろうという人は少ない。ハローワークの面接会にも参加してきたが、警備業のブースには人は来ない。

昨年から岩手県警備業協会の青年部に、唯一の女性メンバーとして参加し始めた。ほかに労務委員会やパトロール指導委員会でも活動する。他社の経営者との交流で「協会に入っていてよかった」と実感する。

最近は「復興が終われば、元の低い料金に戻るのでは」という不安を感じる。地元の得意先を今まで以上に大切にする、他業種への進出、人が辞めないための策――など、これから考えること・やることは多い。

「今の料金」続くか
三星警備保障 代表取締役 大森忠雄さん

翌日3歳を迎える子供の買い物を終え、会社に戻った時に“あの時”は、やって来た。三星警備保障(宮城県石巻市)の大森忠雄代表取締の近くの電柱は、激しい揺れで折れ曲がった。

停電のため、車のテレビで「大津波警報」が出たのを知った。最初は「波で低い所が水を被る程度かな」と軽く見ていた。しかし、見る見るうちに周囲の水位が上がってきた。慌てて車を高台に運び、会社に戻った時には、既に水が大人の腰の高さまで来ていた。

事務所は2階だったため水没は免れたが、壁に額に入れて掲示していた「認定証」や感謝状の類いは落下してガラスが散乱し、各種簿冊も棚から飛び出ていたが無事だった。

大半の隊員は、夜勤明けで自宅で休んでいたため無事だったが、石巻駅前の現場に出ていた1人が犠牲となった。駅前に位置する市役所に避難していればよかったのだが、海沿いに暮らす母親の元へ向かったのか、後に車ごと川で遺体となって発見された。母親は高台に避難して無事だった。

会社に「伝言板」を設け、互いの無事と避難先を確認しあった。いつも停めてある大森さんの車が見当たらないため、「社長が亡くなったのではないか」と心配する隊員もいた。

震災後、1週間は隊員の安否確認と食料確保に費やした。すぐに仕事の依頼があったが、人を出せる状態ではなかった。

自宅が流されなかった隊員に頼み込み、大森さんを加えた7人でなんとか現場に出る段取りがついた。現場は鉄道関連の工事で、12時間交替勤務が3〜4か月続いた。

振り返られるようになったのは最近です――。最初の1年間は考える余裕などなかった。忙しくても辛いという感覚はなかった。

戻ってくる隊員も

石巻営業所長だった1999年、勤めていた警備会社の経営が傾き、取引先の建設会社の勧めで25歳で会社を興した。最初の社員は、営業所にいた20人ほどの仲間だった。今は中身が大分入れ替わったが、数はさほど変わらない。

人手不足と高齢化は他社同様、悩みの種。警備会社は増えているが、警備員が増えないのはここでも同じだ。

長く警備員として務め、キャリアのある高齢者はいいが、最近警備員になった高齢者は、事故を嫌う現場では敬遠されがちだ。今後の働き手として「外国人」も視野に置く。

救いなのは、一旦辞めても戻ってくる隊員が多いこと。ベテランが若い隊員に「(後のことを考えて)悪態ついて辞めるな」とアドバイスしてくれている。

仕事は今でも多い。昔は3月も20日過ぎあたりから仕事が急激に減っていた。今は「いつになったら一息つけるの」「いつになったら休めるの」が挨拶代わりだ。一方で、「年度変わり」に関係なく続いていた仕事が、一昨年前ころからは、すぐに次の仕事が出るものの、年度終わりで一旦仕事が終わりになるなど変化の兆しも見える。

震災前は警備業も建設業も底値でした――。大きな犠牲を伴ったが、震災復興で息を吹き返したのも事実だ。しかし、いつまで今の料金でいけるのか、常に不安が付きまとう。

2年間で社会保険にも全員を加入させた。今のような家族のような会社であり続けたい。人を減らさず、できることなら増やしたい――。それが目下の目標だ。