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「知」に備えあれば憂いなし

河内 孝の複眼時評

河内 孝 プロフィール
慶応大法学部卒。毎日新聞社に入社、政治部、ワシントン特派員、外信部長、社長室長、常務取締役などを経て退社。現在、東京福祉大学特任教授、国際厚生事業団理事。著書に「血の政治―青嵐会という物語」、「新聞社、破たんしたビジネスモデル」、「自衛する老後」(いずれも新潮社)など。

寛恕を教えてくれた米国旅行2019.09.11

-よきアメリカはノーリターン?-

1985年(昭和60年)4月から6月にかけ米国務省の招待で一か月半あまりアメリカ一人旅を楽しんだ。どこへ行くか、誰と会うか、何をするかも自由。この間、原稿を送ってはいけない。じっくりアメリカを知ってくれ、ということだ。往復航空運賃以外の交通費、滞在費、食費は全部、先方持ち。しかも必要なら通訳、訪問先でのホストファミリーも斡旋してくれた。まさにアメリカの豊かさを象徴するような文化プログラムだった。対象は経済界、若手官僚、労働界代表、言論界など。この中には若き日のサッチャー英首相や、シュミット独首相も含まれている。プログラムは今日も続いているが予算は大幅に削られ、新興国中心になっているようだ。

貴重な機会だったので、目的を二つに絞った。ワシントンDC、ボストン、ニューヨーク、ロサンゼルスでは国務省、国防総省の他、大学、シンクタンクで安全保障政策を議論する。もう一つは、できる限り多くの地方新聞社を回り編集者と意見交換することだ。

こうしてロードアイランド、アイオワ、モンタナ、テキサスと回りアーカンソー州の州都リトルロックに着いたのは5月下旬の日曜日だった。目的は言うまでもない。1954年の人種差別事件と、その後の社会変容を知りたかったからだ。この事件、古い話なので簡単にまとめると1954年、同州裁判所は公立学校における白人と黒人生徒の分離教育を違憲と判決した。ところが当時の州知事は融合教育を拒否、リトルロック市のセントラル高校に入学を希望した黒人生徒9人の登校を州兵により阻止した。これに対し当時のアイゼンハワー大統領は連邦軍を派遣、黒人生徒の登校を護衛した。騒動のニュースは世界を駆けめぐった。

アメリカの中心が溶けてゆく

それはさておき、リトルロックについて困ったのは日曜日にはホテル、食堂ともアルコールが出ないこと。「参ったなー」とこぼすと、ホストを務めてくれた本屋の主人が「じゃあうちに来いよ」と誘った。ダウンタウンの彼の店から30分ほどハイウエーをぶっ飛ばして緑深い郊外の家に着いた。その瞬間、「そうか」と悟った。何も変わっていないのだ。白人が黒人を避けるためにダウンタウンから逃げ出しただけなのだ。融合したのでなく自らを隔離したのだ。

ビールと南部風ケイジャンスパイスを利かしたバーベキューを楽しみながら彼に聞いた。「彼らがここまで来たらどうする」。50代の主人は即座に、「アラスカまで逃げるさ」と大笑した。この答えと、初対面のアジア人を自宅に招いて家族ぐるみのバーベキューで歓待する度量との落差はなんなのだろう。要は“逃げられる広さと豊かさ”なのかなと思った。

60年代にアメリカを旅行した小田実は公衆トイレからお湯が出るのに驚き、圧倒された。80年代、アメリカの田舎をレンタカーで回った私は、彼らの心の屈折に触れた。しかし、少なくとも異なる文化に興味を持ち、受け入れる寛恕の精神がベースにあった。

そのアメリカが急速に遠ざかりつつある。もう消えた、という人もいる。理由は簡単、アメリカの豊かさの核であった中流階級が絶滅に瀕しているからだ。年収にして1000万円前後の階層を中流階級と呼ぶ。いまだ米国民の80パーセントが、「自分は中流階級」と考えている。ただ過去と違うのは、この人たちの多くが将来に希望が持てず、逆に下層階級に転落する恐怖心を募らせていることだ。人を気遣う余裕は失せた。残るは貪欲な高所得階層と失うものもない貧困層との直接対決。明日のアメリカがトランプ以上に心配だ。