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「知」に備えあれば憂いなし

河内 孝の複眼時評

河内 孝 プロフィール
慶応大法学部卒。毎日新聞社に入社、政治部、ワシントン特派員、外信部長、社長室長、常務取締役などを経て退社。現在、東京福祉大学特任教授、国際厚生事業団理事。著書に「血の政治―青嵐会という物語」、「新聞社、破たんしたビジネスモデル」、「自衛する老後」(いずれも新潮社)など。

自民党総裁選と青嵐会
ー死闘から人気投票への様変わりー2024.09.21

気鋭の政治学者、菅谷幸浩亜細亜大講師から、「青嵐会秘録」(並木書房)が送られてきた。

自民党の議員集団というより荒っぽい言動で知られた、「青嵐会」のことを覚えている人も少なくなった。1973年、田中角栄首相による日中国交回復の拙速さに抗議、自民党国会議員29人が血判して発足させた。台湾を締め出す日中航空協定に反対し、党議決定の場である総務会でコップを投げ、机をひっくり返す“実力行使”で名を売った。マスコミからは、「反共右翼集団」のレッテルを貼られた。

三木内閣では、「自主憲法制定」を求めて武道館を満員にする国民集会を開き、「三木おろし」の先頭に立った。

しかし、会員の多くが属した派閥の領袖、福田赳夫が首相となった頃から空気が変わる。政権擁立の論功行賞もあった(渡辺美智雄厚生相、石原慎太郎環境庁長官)。人事があれば不満も残る。主義主張と功名心の板挟み。疑心暗鬼から亀裂が広がり、あげくリーダー格、中川一郎の総裁選出馬・惨敗・自死で自然消滅した。発足から10年足らず。まさに「激しく吹き荒れ、サッと消える」夏の嵐(青嵐)そのものの政治劇だった。

78年生まれの著者は、三島由紀夫研究から青嵐会にたどり着く。自主憲法の制定、教育正常化、台湾など自由主義国家との連携強化――。

半世紀後、安倍内閣が目指した基本政策に重なる主張をした集団が、党内から異端児扱いされた。この間、何が変わったのだろう。戦後史の中で青嵐会をアカデミックに位置付けた労作である。

戦後ナショナリズムと青嵐会

「青嵐会」について多くの人に、評価を聞いてきた。印象的だったのは、自民党ハト派の重鎮、宮澤喜一の寸評だ。

「ああ、青嵐会ですか。あれは戦後の健全なナショナリズムの発露ですよ」。戦後ナショナリズムとは?「戦後民主主義とそこから生ずる偽善という恐るべきバチルス」(三島由紀夫)に侵されまい、抗したいという思想と行動であろう。

講和と引き換えの安保体制は、独立国家に外国軍隊を駐留させ治外法権を認める“従属体制”にほかならない。やむを得ない選択と分かりつつも、「安保か独立か」の矛盾にさいなまれる葛藤に右翼、左翼の違いはなかった。

戦後最大の国民運動とされる1960年安保闘争の原動力も、左翼運動というより反米ナショナリズムだった。同じ伏流水から、「真の独立(憲法改正)、教育立国、郷土発展」を掲げる青嵐会が生まれた。その心情を少し紹介しよう。

春先は当時、宮崎県会議員の江藤隆美にとって憂鬱な季節だった。汽車で議会に行く度、逆方向で福岡、大阪、東京に向かう列車には集団就職で県内を離れる中卒、高卒があふれていた。「この子たちが東京に行かなくてもよい郷土」を目指して衆議院に挑戦した。

復員後、岡山県で代用教員をしていた加藤六月は、昼食の時間になるとそっと教室を出てゆく生徒に気が付いた。後を追うと三々五々、校庭に集まり砂場に絵を描いていた。弁当を持参できない子たちだった。「こいつらに腹一杯、飯を食わしてやりたい!」。日教組の誘いを蹴って自民党議員の秘書となった。あの石原慎太郎も湘南海岸で米兵にアイスキャンデーで頬をはられた屈辱を忘れなかった。後に嫌米色強い、「ノーと言えるニッポン」を上梓する。

青嵐会が戦後史に何を残したのか。著者が記したように形に残ったものは多くない。しかし、本書から伝わってくるのは、「魂」とか「叫び」といった近頃、政界でついぞ聞かなくなった言霊(ことだま)だ。あの汗と熱量こそが遺産だろう。

ひるがえって27日投開票の自民党総裁選。「選挙の顔」という看板探しの人気投票が進行中だ。中川や渡辺は、総裁選に命を賭けた。別に悲壮になる必要はないし、年末調整や年金問題も大事だろう。が、せめて「この国をどうするか」を熱く論じてほしい。