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「知」に備えあれば憂いなし

河内 孝の複眼時評

河内 孝 プロフィール
慶応大法学部卒。毎日新聞社に入社、政治部、ワシントン特派員、外信部長、社長室長、常務取締役などを経て退社。現在、東京福祉大学特任教授、国際厚生事業団理事。著書に「血の政治―青嵐会という物語」、「新聞社、破たんしたビジネスモデル」、「自衛する老後」(いずれも新潮社)など。

戦い済んで、漂流する米国の威信
-アフガン・イラク戦争とは何だったのか-2021.10.01

1991年2月28日夜、私は毎日新聞ワシントン支局でテレビから流れるブッシュ大統領(父)の演説を聞きながら急ぎの原稿を本社に送っていた。

「クウェートは解放され、イラク軍は敗北した。我々の戦争目的は達成された。多国籍軍の勝利であり、国連の、全人類の、そして法の支配の勝利である」。

戦闘の終了と、勝利を告げる大統領の表情は紅潮し、言葉は高揚していた。個人的には圧倒的な破壊力でイラク軍を撃破した多国籍軍が勢いに乗ってイラクの首都、バグダットまで攻め込むのではと予想していた。

ソ連(当時)も賛成に回った国連決議「678」は、クウェートからのイラク軍無条件撤退を求め、軍事力行使も認めた。その意味で、国境線で軍を止めた大統領の決定は正しい。が、多国籍軍の中には、「この際、サダムフセインを倒すべきだ」という声が強かった。米国内でもチェイニー国防長官(当時)、10年後にブッシュ大統領(子)政権で国防長官となるラムズフェルドらはこの急先鋒だった。

しかし、ベトナム戦争で中級将校として辛酸をなめたパウエル統合参謀本部議長は、「戦争目的を途中変更するのは誤り」と大統領命令を歓迎した。文民統制が機能したお手本として評価する原稿を書いた。

残念ながらこの決定、米国民には評判が悪かった。フセイン体制は続き、イラク軍が温存されたこと。停戦協定で約束した大量破壊兵器の廃棄が反故にされたことで、ブッシュ大統領(父)には“弱腰”のレッテルが貼られた。そして再選の望みはついえた。

この経験と、父への複雑な感情が子による20年におよぶアフガン・イラク戦争の導火線に火をつける。片や、真珠湾攻撃の報を聞くや学業を投げうって海軍に志願。パイロットとして活躍、勲章を授与された英雄。子といえば限りなく徴兵忌避に近い形でベトナム戦争から逃れ、キャリアでも、ついぞ父親の影から抜け出ることができなかった。

ブッシュ父子の愛憎と2つの戦争

そんなブッシュ大統領(子)にとって2001年9月11日のテロ事件は、ある意味、父との関係の転機だった。ブッシュ(子)は、「彼らは米国に宣戦布告した。その瞬間、私は戦争を心に決めた」と回想している。後にボブ・ウッドワードに、「父に誤りを認めさせたかった」とも語っている。本音は、「認められたかった」であろう。実際の戦争を仕切ったのはチェイニー副大統領と、ラムズフェルド国防長官。ネオコン2人の頭にあったのは、アフガニスタンよりイラクと、その石油だった。アルカイダと、彼らをかくまったタリバンを屈服させるのか、10年前にやり残したイラク制圧が優先するのか。最初から戦争目的は分裂していた。

アフガニスタンに関してはオバマ大統領時代の2011年5月にテロ事件の主犯、ビン・ラディンを殺害した時、撤退の機運が高まった。しかし、時の政権は、「アフガン、イラクを民主化する」という新たな幻想に引きずられ戦争は長引いた。

ブッシュ(父)の主導した湾岸戦争の期間は半年間。戦死、294人(うち半分は事故、同士討ち)。戦費は、600億ドル、うち400億ドルをサウジが負担、残りはクウェートが原油で払ったし、日本も135億ドル拠出した。米国一強を世界に誇示した。

対するブッシュ(子)が始めたアフガン・イラク戦争。期間は20年間。戦費は2兆ドル。戦死は2400人、米国の威信は地に落ちた。結果は歴然としている。最も恐ろしいのは国論分裂により、「テロは外からでなく(議事堂占拠のように)国内からも来るようになった」(ニューヨーク・タイムズ9月9日付)ことである。