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「知」に備えあれば憂いなし

河内 孝の複眼時評

河内 孝 プロフィール
慶応大法学部卒。毎日新聞社に入社、政治部、ワシントン特派員、外信部長、社長室長、常務取締役などを経て退社。現在、東京福祉大学特任教授、国際厚生事業団理事。著書に「血の政治―青嵐会という物語」、「新聞社、破たんしたビジネスモデル」、「自衛する老後」(いずれも新潮社)など。

核共有論議の虚実
-原則をおさえてから議論を-2022.03.21

安倍前首相の「核共有論」が波紋を呼んでいる。ロシア軍のウクライナ侵攻以来、テレビや派閥会合で、「非核三原則はあるが国家存立の課題として議論を」とぶち上げている。  

平然と核恫喝(どうかつ)するプーチン大統領、ミサイル乱打のロケット・マン、金正恩北朝鮮総書記がいるご時世だから、「核の一発も持たないと」と思う人が出てきても不思議ではない。

しかし、共有であれ、自主開発であれ日本の核保有は、厄介な問題だ。技術論ではない。ウラン濃縮はじめ実験技術もあるので、「半年以内に実用弾頭が作れる」と言う専門家もいる。最大の障壁は、戦争体験者を中心に共有されている「反核感情」と、その象徴である非核三原則を乗り越えられるかだ。国論を二分する大論争になる。自公両党にとっても、今夏参議院選挙のマイナス材料だから政治課題に載せる気はない。それは織り込み済みで安倍氏が発言を続けるのは、保守層に再登板待望論が高まると踏んでいるからだ。岸田首相には迷惑な話だが。

以上を前提にしながら、ここで「厄介」というのは国内問題でなく、肝心の米国との調整が至難という点なのだ。核共有の議論を本気でするなら押さえておくべき基本条件が二つある。第一はNATO諸国(英国を除く)で『Nuclear Stockpile』と呼ばれる核備蓄(安倍氏の言う核共有)が生まれた経過を知ること。第二に『デカップリング』(核同盟の切り離し)という核保有国と非保有国間の深刻な葛藤の存在を理解しておくことだ。

おそらく核共有の問題で誰よりも真剣に米国に働きかけ、挫折したのは1949年から63年まで西ドイツ(当時)首相を務めたアデナウアーであろう。55年独立しNATOに加盟した時、すでに西独米軍基地には核兵器(大口径砲用砲弾)が配備されていた。非常事態には、米軍の許可を受け、同軍管理下の核兵器を使用できるというのが「共有」である。現在は航空機搭載用爆弾に代わっている。

西独首相の苦闘と挫折

この取り決めにアデナウアー首相は不満であり、不安でもあった。そもそもNATO戦略は、東側が優越する通常戦力に対し圧倒的な核戦力で対抗する、というものだった。しかし、ソ連が大陸間弾道弾開発を進め核均衡が進む中、通常戦力の非対称性が改めて浮上した。こうした中、米国は原子砲、あるいは核爆弾の使用を認めるだろうか? 仮に認めれば一気に全面核戦争にエスカレートする。米国はドイツを守るために自国大都市を廃墟にする覚悟が求められる。米国が敵国(ソ連、中国、北朝鮮など)からの核攻撃を恐れ、同盟国の防衛誓約を躊躇ちゅうちょ、反故にする事態。これがデカップリングだ。

アデナウアーの懸念は、55年のハンガリー革命で米国が蜂起した市民を見殺しにしたこと、キューバ危機での米ソ手打ちを見て深まる。彼は、議会演説でこう訴える。「ヨーロッパでの核使用に米下院の議決、NATO理事会全会一致の議決を得られると思うことは非現実的だ。西独が自らの戦術核を持つ必要がある」。だが、これは対米関係を終焉しゅうえんに導く行為であり断念せざるを得なかった。

「ヨーロッパの核」共有を目指すが、ナチスドイツと闘ったドゴールの警戒感は強く挫折する。

核共有は、「米国の管理下、許す範囲での使用」であり、自主的判断が働く余地はない。数発の中距離核ミサイル発射と引き換えに米本土を危険にさらす決断ができる大統領はいない。使えない核を、「持ち込んで」標的になるくらいなら米国と対立しても国民的合意を得て自主開発する方が防衛論として妥当ではないか? これらを踏まえて大いに「共有議論」をすればいい。