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「知」に備えあれば憂いなし

河内 孝の複眼時評

河内 孝 プロフィール
慶応大法学部卒。毎日新聞社に入社、政治部、ワシントン特派員、外信部長、社長室長、常務取締役などを経て退社。現在、東京福祉大学特任教授、国際厚生事業団理事。著書に「血の政治―青嵐会という物語」、「新聞社、破たんしたビジネスモデル」、「自衛する老後」(いずれも新潮社)など。

日本の針路を考える(中)
ー脱亜と脱米のはざまでー2024.05.01

沖縄の核抜き返還を決めた1969年11月の佐藤栄作首相とニクソン米大統領との共同声明第4項は、次のように書かれている。

「佐藤首相は、韓国の安全は日本自身の安全にとって緊要(essential)である。(中略)また台湾地域における平和と安全の維持も日本の安全にとって極めて重要な要素(most important factor)であると述べた」。

さらに佐藤首相は、その後のワシントン・ナショナル・プレスクラブ演説で、より踏み込んだ説明を行った。

「韓国に対し武力攻撃が発生し、これに対抗するため米軍が日本国内の施設区域を戦闘作戦行動の発進基地として使用しなければならないような事態が生じた場合には、日本政府は、事前協議に対し前向きかつ、速やかに(positively and promptly)態度を決定する方針である。米国による台湾防衛義務の履行ということになれば我々としては、我が国益上、先に述べた認識を踏まえ対処していくべきと考える」。

共同声明とプレスクラブ演説が一体となって朝鮮半島有事(場合によっては台湾有事)の際、米軍による核兵器の再搬入、日本からの直接攻撃に関する事前協議に、「イエス」と答えることを事実上約束したといえる。これが首相帰国後、国内で議論となるのだが今回は、そこには踏み込まない。

この声明と1890年12月、山縣有朋首相が第一回帝国議会で行った軍備拡張予算を求める演説とを読み比べてもらいたい。

「国家自営の道に二途あり。第一に主権線を守護すること、第二は利益線を保護することである。主権線とは国境をいい、利益線とは主権線の安危に、密着の関係ある区域を申したのである。およそ国として主権線及び利益線を保たぬ国は御座いませぬ」(一部現代語に直した)。では日本の利益線とは?

施政方針演説に先立つ同年3月の「外交政略論」で山縣は「我が邦利益線の焦点は実に朝鮮にあり」と断言している。日清戦争の勃発は、この4年後である。

日朝運命共同体のルーツは

朝鮮半島と日本の安全は表裏一体という認識のルーツを探ると663年の白村江の戦いにまでさかのぼる。言うまでもなくこの戦いは、唐・新羅連合軍に滅ぼされた百済復興軍を救援するため大和朝廷が3波、計3万余の軍隊を送ったもの。

結果は、戦いなれた唐海軍と、陸戦の新羅軍との挟み撃ちにあって惨敗に終わった。

天智天皇は、唐の襲来を恐れ九州海岸に城を築き、都を難波から内陸の近江京に移すなど国防強化を図った。以来、大陸勢力が日本の侵攻を図ったのは、13世紀の元による文永・弘安の役だけである。

外交評論家の故岡崎久彦は、「(1950〜53年の朝鮮戦争を含め)大陸に膨張主義的な大国が出現して、(朝鮮という緩衝地帯が消え)その勢力が半島南部まで及んだ場合、極東の均衡条件が崩れ日本に危機が迫るという(のは)戦略的環境の真理」と語っている。

確かに高句麗、新羅など古代朝鮮王朝は、防戦に回ったときに、驚くほどの能力を発揮している。高句麗は侵入してきた隋、唐を何度も打ち破っているし、新羅は、7年間も唐と闘い独立を勝ち取っている。

つまりアジア大陸と日本をつなぐ回廊にある朝鮮半島では、歴代王朝が緩衝材となって(大国による)日本侵略を防いできた、ともいえるのだ。

こうした歴史的背景を考えると明治新政府が近隣大国の影響を受けない朝鮮王朝と友好関係を確立し、できれば日本の勢力圏下に置きたいと考えたのは当然である。

従って日清戦争の目的は(1)清と朝鮮王朝の保護関係を絶つ(2)朝鮮王朝に半島における日本の優越的地位を認めさせ日本の覇権を確立する――ことにあった。

しかし、戦争に勝利したものの日本は、戦略目的を全く達成できなかった。割譲を受けた遼東半島は返還を迫られ、王妃を暗殺された朝鮮王は、日本を深く恨みロシア公使館に避難、同国の保護領化してしまう。

つまり戦前の清と戦後のロシアが入れ替わっただけの状態となった。日露戦は必至となった。