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「知」に備えあれば憂いなし

河内 孝の複眼時評

河内 孝 プロフィール
慶応大法学部卒。毎日新聞社に入社、政治部、ワシントン特派員、外信部長、社長室長、常務取締役などを経て退社。現在、東京福祉大学特任教授、国際厚生事業団理事。著書に「血の政治―青嵐会という物語」、「新聞社、破たんしたビジネスモデル」、「自衛する老後」(いずれも新潮社)など。

追憶、東京五輪1964年
-あれから57年、戦後史の光と影-2021.06.11

「とにかく開きさえすれば、空気は変わる」。自民党重鎮は、五輪開催についてこう語ったという。ひたすら開催に突き進む政府要人、自民党首脳部には共通点がある。57年前の東京五輪を「どっぷり体験、しっかり感動」した世代の人たちであることだ。

あの時代に関しては、筆者にも既視感がある。当時、高校生だったが東京中をひっくり返したような騒動には、本当に閉口した。それはそうだろう。東海道新幹線開通、東名高速道路全通、東京モノレール開業が一気に来た。首都高速、地下鉄延伸、環七通り整備、拡幅の突貫工事、並行して各種競技場、選手村、ホテルなどの建設ラッシュも重なった。

結果、数年にわたり都内の主要幹線は、昼夜なく堀り返され、埋め戻され渋滞、騒音、不便が続いた。変わりゆく古き良き東京の景観にノスタルジーを刺激された人々から怨嗟の声が噴出した。

空気が変わり始めたのは、戦後国産第一号の旅客機YS11がアテネから採取した聖火を空輸して来た頃からだ。開会式では青空をカンバスに自衛隊のブルー・インパルスが見事な五輪を描き出した。見たこともなかった重量挙げで、三宅選手が体より大きく見えるバーベルを上げ優勝、ムードが一挙に盛り上がった。ベラ・チャフラスカの華麗な体操演技に国民の目はくぎ付けになった。マラソンでは裸足のアベベと円谷幸吉選手の快走にこぶしを握った。そして競技最終日、東洋の魔女と呼ばれた日本バレーチームが強国ソ連(当時)に勝ち、優勝した夜のテレビ視聴率は、ご成婚パレードまで破られなかった。あの三島由紀夫が、「国民が泣いた、私も泣いた。」と歓喜の観戦記をつづった。

少し思い出すだけで、こうした光景が次々に浮かび上がる。東京五輪1964年こそ、国民の心を一つにする強烈なエネルギーを持っていた。「やれば皆ついてくる」信仰は、こうして生まれた。

柳の下にどじょうは…

64年東京五輪の成功は、戦後史の中でユニークな社会実験だった。独立回復4年後の56年版経済白書は、「もはや戦後ではない」と宣言した。60年安保闘争は、反米ナショナリズムを原動力にした国民運動が保守政権を打倒し得る力を示した。

後を受けた池田内閣は、関心を政治から経済へ切り替えようと「所得倍増計画」を打ち上げる。それから4年、東京五輪こそ全国民が、色付き始めた高度成長の果実を味わった初の共同体験だった。「戦後の終わり」を自分の眼で確認した現場だった。消えぬ敗戦のトラウマを癒す精神安定剤にもなった。

1964年当時の各種統計を、今日と比較すると、その落差にあ然とする。人口千人当たりの出生率は17.3人(2019年は7人)。テレビ(白黒)の普及率は23.6%。ご近所での拝見が日常風景だった。今日、テレビの普及率は200%を超えるが、スマホの影響で視聴率の低下(テレビ離れ)が進行中だ。今や、持っていない世帯を探すのが難しい洗濯機の普及率はこの時、61.4%、冷蔵庫5.7%。カラーテレビ、クーラー、乗用車の普及率は統計上ゼロだった。

「貧しいが平和、豊かさへ希望が持てる」時代と、高齢化、格差の進行で、「豊かさから転落する不安」にさいなまれる時代。両極端な環境下で、「五輪の効用」を同列に論ずること自体、ナンセンスなのだ。

確かに白血病を克服した池江選手には、心から声援を送りたいし、松山選手が出場すればテレビ観戦するだろう。スポーツが与えてくれる感動は、57年前と今日、何の変りもない。しかし、あまりにも違うのは時代の熱気と、見るも無残な五輪ビジネスの横行、政治利用の醜悪さなのである。