河内 孝の複眼時評
河内 孝 プロフィール |
慶応大法学部卒。毎日新聞社に入社、政治部、ワシントン特派員、外信部長、社長室長、常務取締役などを経て退社。現在、東京福祉大学特任教授、国際厚生事業団理事。著書に「血の政治―青嵐会という物語」、「新聞社、破たんしたビジネスモデル」、「自衛する老後」(いずれも新潮社)など。 |
石橋湛山と石破茂
ー二人が共有するものとは?ー2025.01.01
昨年の所信表明で石破首相は、石橋湛山元首相の発言を引用した。「常に国家の永遠の運命に思いを致し、地方的利害や国民の一部の思惑に偏することなく、国民全体の福祉のみを念じて国政の方向を定め、論議を尽くしてゆくよう努めたい」。
演説後、日本維新の会、馬場信幸衆院議員は「わざわざ短命内閣(在任65日間で歴代2位)首相の発言を引用するのは、何か宿命的なものを感じておられるのか…」と皮肉った。
石破首相の湛山研究は一夜漬けではない。2023年6月、超党派で作った「石橋湛山研究会」に当初から参加している。石橋湛山は1907(明治40)年、早稲田大学卒業後、東京毎日新聞(現毎日新聞とは無関係)を経て1911(同44)年、東洋経済新報社記者となる。以来、論説委員、主幹として終戦まで同誌を舞台に一貫してリベラルな非戦論を貫いた。その思想は、「小日本主義」に象徴される。
「我に移民の要なし」。石橋が1927(大正2)年、書いた社説の表題だ。今日の人には、「日本に外国移民を受け入れる必要はない」と読めるだろうが、全く逆だ。明治維新当時、3千5百万人だった人口は、明治末に5千万人を超えた。この人口増に対し時の政府は満洲、朝鮮半島、南北アメリカへの移民を盛んに奨励した。
今日に通用するか小日本主義?
結果、満洲、朝鮮半島では土地所有をめぐり紛争が頻発。米カリフォルニア州では「排日土地法」が成立、事実上の移民禁止に動いた。険悪化する日米関係に湛山は、移民奨励策を批判した。「(人口過剰という)根拠なき誤想に駆られていたずらに帝国主義を奉行(遂行)し、白人の偏見に油を注ぎ、果ては米人の嫌がるを無理に移民せんとするなど、誠に愚なる」(1914年5月15日社説)。代わって湛山が提唱したのは、国内産業育成による内需拡大・雇用創出だ。その原資は、大陸に投入する植民地経営費用と増大する一方の軍事費を充てればよい。
「今や工業が盛んとなり。通商が活況を呈し、世界から食料を自由に得られる以上、わが国は6、7千万人の人口過剰で苦しむわけがないと主張した」(増田弘著「石橋湛山」)。植民地経営は抵抗を生むだけで生産的ではない。満洲利権は放棄、朝鮮からは撤退する。中国の内政に干渉した21か条要求も撤回する。ロシア革命を受けてのシベリア出兵などすべきでない――。これが小日本主義の骨子だ。
増田氏は「戦後の日本が植民地なしで経済成長を遂げ国際社会の牽引車的役割を果たしているのは、湛山の先見性を如実に物語っている」と評価する。残念ながら同意できない。まず、戦前に「小日本主義」を実現することは不可能だった。政権ばかりでなく圧倒的国民世論が拒絶しただろう。次に戦後、日本が復興と高度成長に専念できたのは国民の努力もあるが、軍事大国米国の庇護、自由主義の防波堤を果たした韓国の存在があったからである。
では今日、石破首相が湛山から学ぶべきものは何であろう。湛山の主張は、純経済的合理性から言えば現実的だった。しかし政治論としてはユートピア(空想的)と言わざるを得ない。
英国の歴史学者E・H・カーは、挫折に終わった国際連盟、共産主義、国家社会主義のいずれも一種の理想主義(ユートピア)から生まれたと言う。しかし、この理想はいったん制度として具体化されると原点を見失い、現実主義(リアリズム)に打破される。そこから再び新理想主義の挑戦が始まる。この相互作業が政治そのものだ――という(危機の20年)。
石破氏と湛山の共通点は、岸信介から安倍晋三につながる権力的な統治論に距離を置いていること。日米安保条約に伴う地位協定の改定、アジア版NATO構想など一種の理想主義を掲げている点だろうか。石破首相が理想と現実の相互作用をどう働かせるのか、あるいは挫折して馬場説を裏付けるのか。答えは今年中に出るだろう。