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「知」に備えあれば憂いなし

河内 孝の複眼時評

河内 孝 プロフィール
慶応大法学部卒。毎日新聞社に入社、政治部、ワシントン特派員、外信部長、社長室長、常務取締役などを経て退社。現在、東京福祉大学特任教授、国際厚生事業団理事。著書に「血の政治―青嵐会という物語」、「新聞社、破たんしたビジネスモデル」、「自衛する老後」(いずれも新潮社)など。

どうする〝女帝〟
ー私の小池百合子論ー2024.06.21

岸田首相は6月解散を断念した。この結果、7月7日投開票の東京都知事選が今年前半、最大の政治イベントに躍り出た。

12日に小池百合子知事が3選出馬を宣言して役者もそろった。想定外の蓮舫参議院議員出馬で出鼻をくじかれ、一転して態度決定をギリギリまで延ばし、世の関心を惹きつける戦術に切り替えた。

この選挙には本欄、3月1日号で紹介したSNSを駆使して名を挙げた広島県安芸高田市の石丸伸二氏や、元航空自衛隊幕僚長の田母神俊雄氏など50人もが名乗りを上げている。しかし、世の関心が「首都女性決戦」に集まることは避けられまい。そこで小池氏に申し上げたいことがある。

私が小池氏に会ったのは、新米政治記者だった1978(昭和53)年である。彼女がエジプトから帰国して間もない頃だった。紹介してくれたのは、郵政大臣を務めた故佐藤文生衆院議員である。

佐藤氏と小池氏の父、勇二郎氏が青年会議所時代からの仲間で、当時は「東京の親代わり」。さらに佐藤代議士は73年、日本赤軍による「ドバイ日航機ハイジャック事件」解決のため運輸政務次官として現地入りした。以来、中東問題に関心を持ち、「日本アラブ協会」職員でもあった小池氏を時折、スタッフ代わりに使っていた。

「振り袖姿でピラミッドに登り、お茶をたてたというのはこの人か」。回転の早い受け答えに芯の強さ、聡明さがうかがえた。「日本アラブ協会」が国会近くの青嵐会など政治家事務所の多いビル内にあったので会う機会が増えた。故竹村健一氏のテレビ番組アシスタントになって政財界、欧米・アラブなど大使館関係者に喰い込み情報量も豊富だった。

印象に残っているのが、「トルコ風呂改名事件」(1983年)だ。トルコ人留学生の抗議の投書を読んだ彼女、「世界一の親日国の名を風俗営業に使うとは、何事か!」と動いた。

頼まれて時の渡部恒三厚生大臣(故人)との会談をセットした。独特のユーモアと東北弁で人気のあった大臣、すっかりやる気になって業界団体を呼び一か月後、名前を「ソープランド」に変えてしまった。退任後、渡部は「厚生大臣として役人と相談せずに決められたのは、これだけだった」と“迷言”を残している。

「女」を押し出すこともなく、ビジネス仲間の付き合いといった関係が続いた。国会議員になってからは、数か月に一回、彼女が主催する3〜40人の支持者、知人を招く「カレー懇談」で話すことが多かった。

参院議員に当選した前後から彼女のいわゆる「学歴詐称問題」が繰り返し詮索されるようになった。当時、毎日新聞で国際報道の責任者だったのでカイロ特派員に調べてもらった。返事は「大学当局は、卒業はしていると言っている」とのことだった。次の機会に、その話をすると「そうだったの。特派員に(まで)調べさせたの」と真剣な顔をされ、かえって悪いことをしたかと気がひけたのを覚えている。

名古屋に転勤した時は、小泉内閣の環境大臣だったが出張の折に立ち寄ってくれた。毎日新聞を退社し、慶応大学でメディア論を教えていた時は、恥ずかしいほどの薄謝で講義に駆け付けてくれた。「長い付き合いの仲間から、“お前チョット助けろ”と言われれば来ないわけにはまいりません」と話し始めた。大受けだった。

小池都知事、臆さず全てを語れ

このように私に関する限り小池氏について悪い思い出はひとつもない。だからこそ申し上げたい。

仮に「カイロ大学首席卒業」でなくてもよいではないか。大学中退で成功した人、立派な人はいくらでもいる。半世紀も前に十代で単身、カイロに乗り込み、アルバイトをしながら大学に通っただけでも素晴らしい青春の記念碑ではないか。

無論、公人である以上、経歴を偽ることは許されない。選挙期間中、全ての疑問に正面から答える。その上で都民の審判を受けて欲しいと思うのだ。