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「知」に備えあれば憂いなし

河内 孝の複眼時評

河内 孝 プロフィール
慶応大法学部卒。毎日新聞社に入社、政治部、ワシントン特派員、外信部長、社長室長、常務取締役などを経て退社。現在、東京福祉大学特任教授、国際厚生事業団理事。著書に「血の政治―青嵐会という物語」、「新聞社、破たんしたビジネスモデル」、「自衛する老後」(いずれも新潮社)など。

日本の針路を考える(下)
ー第三の道はあるのか?ー2024.06.01

「ほぼ独力で国際秩序を維持してきた米国。(その責任を)一人双肩に担うことがいかなる重荷であるのか、私は理解しています」。

「米国の最も親しい友人、トモダチとして日本国民は既に、肩を組んで共に立ち上がっています。米国は一人ではありません」。

4月11日、米連邦議会での岸田文雄首相演説の一節だ。米国民の琴線に触れたい、という願望があふれている。

「日米の一体化が限りなく進化する中、日本は、米国の対中抑止戦略にさらに強固に組み込まれた」(朝日新聞4月16日)という評価もある。が、筆者の率直な印象は、「そこまで言うのか?」だ。

言行の一致を求める厳しさでアメリカ社会は、日本の比ではない。「戦争です。一緒に立ち上がって下さい」と言われて自衛隊は、地球の裏まで行くのだろうか? 準備、世論形成はできているのか。

今回、首相は改めて吉田茂以来の対米協調路線(追従路線と言う人もいる)を堅持する覚悟を披歴した。もっとも吉田の「協調」は、米国が主導した平和憲法を盾に軍事的協力ができない、とクギを刺してあった。岸田演説は後に、「あの時ルビコン川を渡った」と言われることになるかもしれない。

この対米協調主義(海洋国家論)の対極に大陸国家論がある。日清・日露戦争後の日本は、大陸進出で泥沼にはまり破滅した、と言われる。

不思議なのは日清・日露戦争後、大陸進出か、海洋国家を目指すのかにつき政策決定が行われた形跡がないことだ。日露戦後の1907(明治40)年に制定された「帝国国防方針」を読んでみる。

「満州及び韓国に扶植した利権と、亜細亜の南方並びに太平洋の彼岸に皇張(拡大)しつつある民力の発展とを擁護するは勿論、ますますこれを拡張するを以て帝国施政の大方針と為さざるべからず」。

何のことはない。大陸進出も海洋進出もやる、と言っている。これに基づく軍事方針も、陸軍重視の長州閥と、海軍重視の薩摩閥との綱引きで「南(太平洋)北(大陸)併進」に落ち着いた。結果ロシアと米国、二大軍事大国を仮想敵に抱え込んだ。

防衛研修所(戦史研究)の黒野耐氏は、この決定について陸海軍の主導権争いで両者が都合のいいように国家戦略を引っ張った結果、「実質的に何も決定されなかったに等しい」と言う。

大戦略を欠いたままの日本が何故、太平洋戦争を始め、崩壊したのか。青山学院大の土山教授は、人が不確実性の中でどのような選択をするかを分析するプロスペクト理論で説明する。

利権放棄する勇気なし

「国家は利益や安全保障を獲得する時に払うコストやリスクよりも、獲得したそれらを失わないようにする時の方が、はるかに高いコストとリスクを払う」。

日本軍の仏印進駐に伴い41年6月に米国が対日石油禁輸・資産凍結に踏み切った時に当てはめてみよう。対中国、米国(潜在的にはロシア)戦による人命、戦費、時間などのコストを考えれば華北、満洲、朝鮮半島からの条件付き撤退を考慮せざるを得なかったはずだ。

しかし、当時の為政者は、「明治天皇のご偉業である日清、日露戦の成果を放棄することは忍び難い」という情緒的理由で、既得権死守の道を選んだ(仮に撤退すれば関係者全員が責任を免れず、軍部も黙っていなかったであろうが)。

結局、「清水の舞台から飛び降りる気持ち」(東条英機首相)、「負けるけどやらねばならん…」(永野修身参謀総長)という誠に非合理な理屈で対米戦に踏み切った。

リアルな戦略に基づかず、時代の空気や情緒に引きずられ国家針路を誤ることを二度としてはならない。中、ロの現状から大陸志向は論外。自主防衛論は威勢がいいが核武装と防衛コスト増で国が破綻する。

結局、日米同盟を維持しつつ、その質と量を改善していくしかないのだ。その際、絶対に避けるべきは、出来ないことを出来るかのように言うことだ。