クローズUP
特集ワイド 警備業、震災5年目の”今”2016.3.11
“平成23年3月11日に発生した東日本大震災。あの日から5年目を迎えた。岩手、宮城、福島の被災3県の被災地からは、以前は山のようにあった“がれき”が消えたとは言え、いまだ復興の途上にある。また、震災は警備業にも大きな影響を与えた。本紙では被災3県で震災による被害を受けたにもかかわらず、力強く再建し、警備業務を再開した3社を訪ねた。“あの日”から今日までの苦難の道のりとは――。
”あの日”はまだまだ遠くない
協立管理工業 代表取締役社長 小笠原拓生さん
施設警備と清掃などビルメンテナンス業を行う協立管理工業(岩手県釜石市)は、5年前まで海辺から約400メートルの場所にあった。3階建ての社屋の最上階は、現在の代表取締役社長で、当時は専務だった小笠原拓生さんの自宅も兼ねていた
会長と社長だった小笠原さんの2人の叔父や同僚らと仕事をしている時に大きな揺れに襲われた
妻と子供を避難させ、事務所で次の行動を考えていた矢先、ニュースが伝える「津波が堤防を越えた」を聞き、とっさに上階へ逃げた。しかし、2人の叔父と同僚1人は津波にのみ込まれてしまった
1階から聞こえた「来た、来た」という叔父の声は、今でも耳に残る。
水は2階壁の電灯スイッチの辺りまで達し、小笠原さんと2人の社員は3階の自宅に避難。20代半ばで病気によって視力を失った小笠原さんは、すぐ近くから漂ってくる海の匂い、それに混ざり込んだガソリンの匂いの中で不安な一夜を明かした
翌日、周囲の水が引き、避難所に。無事だった妻や子と再会を果たすことができた。
プレハブ小屋から再起
震災が発生した3月中に市内の内陸部に事務所を移転。小さなプレハブ小屋からの再起だった。しかも、全ての書類が津波で流されてしまい、印鑑づくりから始める再スタートだ。 特に痛かったのが、給与データベースの破壊。全てをパソコンで管理していたが、電子データは完全に失われた。
警備業関係の書類は、岩手県警備業協会や同業者の支援で比較的早期に復旧できた。
業務については、病院など生活に欠かせない施設は、すぐに仮設の施設が立てられ、警備業務は継続して行うことができた。しかし、再建が遅れている施設、撤退してしまったユーザーの仕事は途絶えたままだ。
震災前に約160人いた従業員は、現在は120人ほどに減少した。ハローワークや新聞のチラシなどで募集を行っているが、地域全体が人手不足の状態が続いたままだ。「人口自体が減少しましたから」と、小笠原さんも諦め気味だ。
平成25年1月、プレハブ小屋の隣に現在の社屋を新築した。今後の展望を聞くと、「人手がなく、新しいことに手を出せないのが辛いです」と、小笠原さんは悔しさを滲ませる。しかし一方で、「市の復興には携わっていきたい」とも。
「あの日から5年経ちますが、“区切り”という実感はありません。確かに年数は経ちましたが、あの日はまだまだ遠くなっていません」。その言葉から震災被災地の“今”が見える。
"震災バブル"にはしたくない
エクセス 代表取締役 深堀嘉宏さん
「初めて体験するすごい揺れでした」――。当時を振り返るのは、宮城県東松島市に本社を置き、主に交通誘導警備業務を行う「エクセス」で代表取締役を務める深堀嘉宏さん。
津波で市内の約50%が水没した東松島市だが、幸いにも同社は浸水被害を免れた。
当日は30人ほどの警備員が現場で交通誘導警備業務に従事していたが、全員の安否確認ができるのに2週間ほど要した。しかし、2人の警備員が犠牲になった。
深堀さんは、行方不明となったままの2人の警備員を探し、各地に設けられた遺体安置所に足を運んだ。最初のうちは車で探し回っていたが、 そのうちガソリンも尽き、がれきの中を自転車で探し回った。
何千という遺体を目の当たりにし、今でも時おりテレビに映し出される津波映像からは、つい目を背けてしまう。好きだった釣りにも行けなくなった
震災翌日から仕事の依頼
警備員の安否確認もままならない中、震災翌日から設備工事会社から交通誘導警備を要請された。深堀さんは、連絡の取れる警備員3~4人を早速現場に派遣。1か月後には多くの警備員が職場に集まった。
5年経った現在も交通誘導警備の要請は多く、多忙な日々が続くが、頭が痛いのが警備員不足だ。
あらゆる手段で人集めを試みるが、そう簡単にはいかない。多い時は月100万円にも上る募集費用は大きな負担だ。
加えて、県外業者による警備員の引き抜きも深刻だ。「安易な気持ちで出店し、人が集まらないからと地元業者の警備員を引き抜くことは止めてほしいですね」と、深堀さんは嘆く。
震災被災地支援の一環で高く設定された宮城県など被災3県の公共工事設計労務単価。これを追い風に適正な警備料金の確保に取り組んだ結果、全ての警備員の社会保険加入を果たした。また、企業イメージアップのためのホームページ開設、震災教訓を盛り込んだ新任教育など各種教育の充実、事前教育による検定への備え――など企業力強化にも前向きだ。
さらに、業務展開強化を見据え、昨年2月に多賀城市内にビルを購入した。営業所や研修所として活用する一方で、空きフロアは賃貸用とし、不動産収入の獲得も目指す。
将来展望を聞くと、次のように語ってくれた。「今を震災バブルにはしたくありません。将来に備えて1号業務など他種別や警備業以外への進出も検討しています。人手不足は深刻ですが、当社がそうであったように、警備業は震災直後から求められるなど大切な仕事です。震災によって、重要な仕事をしていることを改めて感じました。警備業は“底辺の仕事”ではありません。警備員も経営者も誇りを持つべきです。 特に経営者は志を高く、誇りを持つべきです。“いいものを提供して、いい料金をいただく”。そうでなければ警備員の給料が不幸なものになってしまいます」。
加えて、「震災時に全国警備業協会をはじめ各県警協から災害援助隊を派遣してもらい、警備業に対する警察の評価も高まりました。宮城警協の緊急災害援助隊の隊長として当時は何もできませんでしたが、県外で不測の事態が発生したらお返しをしたいですね」と語ってくれた。
警備員のため、がむしゃらに
コスモさくら警備保障 代表取締役 鹿島栄子さん
娘の結婚披露宴を1週間後に控え、事前の写真撮影を終えて自宅に戻ったところで、想像を絶する大きな揺れに襲われた鹿島栄子さん。交通誘導警備業を主体とする「コスモさくら警備保障」の代表取締役だ。
会社と自宅は福島県双葉郡富岡町にある。地震の揺れや津波で損傷、制御不能となった福島第一原子力発電所によって、後に「帰還困難区域」となった場所だ。
震災翌日には家族と郡山市内の避難所に避難したが、その日はちょうど会社の給料日。「避難生活のためのお金がない」と、警備員から窮状を訴える連絡が携帯電話に相次いだ。
このため、2~3日後に専務のご主人と会社に戻り、金庫に保管していた警備員約80人分の、現金が入れられ手渡すだけの状態だった給料袋を回収した。そして、避難所近くの銀行に頼み込んで行内の一室を借りて、ほぼ1日をかけて全警備員に連絡、給料振込先と安否の確認を行った。 近くに避難していた警備員には、鹿島さん自らが給料袋を持参し、互いの無事を涙を流して喜んだ。
避難中、厚生労働省が震災で被害を受けた会社で働く人に失業手当の支給を決定した。鹿島さんも早速、全警備員が手当を受けられるようハローワークに足を運んだ。必要な書類は、避難所に“ちゃぶ台”を持ち込んで作成し、3月中には全員に発送し、近くのハローワークに提出するよう連絡した。
その後、得意先の建設会社から「建物解体工事などがあるから交通誘導をして」と、仕事の依頼が寄せられるようなった。
そこで、4月には福島第一原発から遠く、業務継続可能な南相馬市原町の営業所に本社機能を移し、鹿島さんを含め約10人の警備員で顧客からの要請に対応した。
流通が途絶え、食料確保もままならなかったが、福島県警備業協会などから差し入れられた米を事務所で炊き、各自が自分でおにぎりを作って現場に通う日々が続いた。
警備員も集まらず、一時は会社を畳むことも考えた。しかし、これまでの苦労を考えると辞めてしまうのも悔しく、「やれるところまでやってやろう」と気持ちを切り替えた。
新天地、5人で新たな出発
6月には、いわき市に近い広野町で、以前から専属として行ってきた業務が再開したのをきっかけに、小さな事務所を借り受け、同町内に本社機能を持つ営業所を開設。警備員5人からのスタートだった。 事務所裏には、畳敷きの小部屋があり、そこが鹿島さん夫妻の住まいとなった。
現在、同社の警備員は震災前とほぼ同じ約80人。広野町には45人が勤務するまで大きくなった。主な業務は、除染作業や道路工事、解体工事に伴う交通誘導警備業務など。
除染現場には当初、自家用車で通ってもらっていたが、これを嫌がる警備員も多いことから30台の社用車をリースで調達した。
また、“加入しなければ仕事ができない”と、警備員全員を社会保険に加入させた。当然、警備員本人負担分の保険料を賃金に上乗せした。さらに、労災上乗せ保険への加入や退職金制度の整備など、社員が満足できる環境整備に努め、社員やその家族の満足度を高めている。
鹿島さんは「“他社と違うことをやる”というのが私の経営方針。社保や上乗せ労災の保険料、車のリース代やガソリン代など月々の経費は大変ですが、隊員を満足させられずに会社が満足なはずはありません」と、取り組みの真意を語る。
当初は事務所裏の小部屋暮らしだったが、今は近くに一軒家を借り受けることができた。警備員には、アパートを借り上げて寮として提供している。事務所や駐車スペースも手狭となったことから、隣接する農地を借り受けて、新たな事務所も建設した。
当初は“よそ者”として相手にもしてくれなかった土地所有者の下に何度も足を運び、最後は土下座までして、やっと土地を借り受けることができた。
震災後、父と母を相次いで病気で亡くし、愛する故郷を原発によって奪われるなど、塗炭の苦しみを味わった鹿島さん。今日までの感想を尋ねると、「がむしゃらな5年でした」と答えてくれた。