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哀悼の辞2023.02.01

業界発展に多大な貢献
警察庁生活安全局 局長 山本仁氏

飯田亮さまのご逝去の報に接し、謹んで哀悼の意を表し、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

同氏は、1962(昭和37)年に日本初の警備会社、セコムの前身である日本警備保障を設立され、64(昭和39)年の東京オリンピック選手村における警備等に尽力されたほか、機械警備業務の分野を含め、常に先進的な取り組みにより我が国におけるセキュリティーサービスの普及をリードされてきました。

80(昭和55)年には、全国警備業協会の初代会長に就任され、82(昭和57)年の警備業法改正以降、全国警備業協会として教育体系の整備を主導され、現在の警備員教育の礎を築かれるなど、警備業全体の健全な発展とサービスの充実に多大な貢献をされました。

ここに、飯田さまの生前のご功績に改めて深く敬意を表し、ご冥福をお祈りいたしますとともに、ご遺族の皆さまに心よりお悔やみを申し上げます。

思いと功績受け継ぐ
全国警備業協会 会長 中山泰男氏

警備業の創始者・創業者であり全国警備業協会の初代会長である飯田亮氏は1962(昭和37)年7月、世界で最も安全な国の一つで「水と安全はタダ」と言われていた当時の我が国にあって、「無」から我が国初の警備保障会社である日本警備保障(現セコム)を設立、その翌々年、日本初の東京オリンピックにおいて陣頭指揮の下、代々木選手村の警備を無事に成し遂げ警備業の存在を広く世に知らしめ、その後も長年にわたり警備業界の発展に尽力されました。

とりわけ、1979(昭和54)年に当協会前身の全国警備業協会連合会会長に就任、警備業界の社会的地位の向上を目指して同連合会の法人化に努め、翌年には社団法人として全警協が発足、初代会長に就任されました。その後、2002(平成14)年までの23年間、警備業界全体の指導、協会組織の体制確立等に尽力されました。また、氏は「国民の信頼なくして警備業の成り立ちはない」との強い信念を持ち、警備業務の適正化を徹底するとともに、警備員教育の質の向上に全力を傾けました。この、氏の警備業育成に向けた絶え間ない努力にも支えられ、今日、警備業は生活安全産業と言われるほどの一大産業に成長しました。

昨年、我が国に警備業が誕生してから60年、警備業法の施行からは50年、同じく全警協創立50年と節目の年を迎えましたが、警備業は警察庁など行政の皆さまはもとより、数多くのお客さまと先人の皆さまの努力に支えられながら、次の節目に向け今後もより一層発展していくことができると考えています。

飯田氏の功績を挙げれば枚挙にいとまはございません。飯田氏の軌跡そのものが全警協はもとより、警備業界の歴史と言っても過言ではないほど実績を積み上げられてこられました。警備業界の創始者・リーダーとして、業界内外から高い評価を得て、警備業の社会的地位の向上さらには我が国社会の安全・安心の確保に多大の貢献をされたといえましょう。

この飯田氏の思いと功績をしっかりと受け継ぎ、これからも全警協は一丸となって業界の更なる発展のために全力を尽くしていく決意です。

セコム創業者 全警協初代会長 飯田亮氏を悼む2023.02.01

警備業界発展に大きな足跡

飯田亮氏が1997年にセコム代表取締役会長を退任、取締役最高顧問に就任してからも、社の内外に関わらず、同氏から薫陶を受けるなど関係のあった人の多くは、尊敬と親しみを込めて「飯田代表」と呼び続けた。多くの関係者が口をそろえて言う「仕事には厳しかったが、愛情のある人間味のある人」の魅力所以だろう。警備という仕事を通じ、また、全国警備業協会の初代会長を務めた同氏の業界活動を通して、交流のあった6人に同氏への哀悼の言葉を寄せてもらった。

警備業界の先駆者
全国警備業協会 元会長
ALSOK顧問 村井温氏

我が国の警備業の先駆者である飯田さんのご逝去に対し、心から哀悼の意を表します。

コロンブスの卵と同じで、先例があれば、誰でも起業するのは難しくはありませんが、飯田さんは全く新しい警備業という前人未踏の荒野を切り開いて行ったのであり、その先見性と勇気には尊敬の念しか湧きません。

私が官界から警備業界に入った時、最初にご挨拶を行ったのが飯田さんです。初対面でしたが、業界の先輩としてフランクに色々と教えていただきました。

それからは、ライバル業者として、仕事の上では激しい競争はしましたが、警備業の発展、そして警備員の社会的地位の向上という点では、完全に方向は同じでしたので、私も飯田全警協会長の下で警備業協会の仕事にも関わるようになりました。

そのなかでも印象深かったのは、飯田さんが警備員の質の向上を目指して研修所を作ろうと発案されたことでして、それが現在の藤野(相模原市)の研修所の創立につながっています。

その後、私も全警協会長になり、警備業者にも勲章をもらおうということで、まずは飯田さんに受章していただこうとなったのですが、固辞されて実現しませんでした。

数年前、突然、飯田さんから「メシ食わないか」と直接電話があったのが最後のやりとりで、日取りまで決まりながら実現しなかったのは心残りです。合掌。

「教育」に心血注ぐ
全国警備業協会 元会長
全日警 会長 片岡直公氏

経営のトップは自社の発展を念頭に置くのが普通だけど、飯田さんは違いましたね。何より、業界全体のレベルを上げることを考えておられた。全国警備業協会の初代会長を引き受けられて以来、20余年間に及ぶ任期中は、そのことだけに費やされた日々だったでしょう。

私が副会長として仕えていた平成10年代の初めです。協会加盟の警備会社は6000社を超えるまでに膨らんでいました。

「片岡、警備業を日本の安全を守る産業にするには教育しかない。教育のための研修所を作るぞ!」。そのときの気迫は大変なものでしたよ。思いついたら即実行が飯田さん。一部にあった時期尚早との声を押し切って開設したのが研修センター「ふじの」でした。

少なからずの苦労、悩みもあったと思いますね。でも、顔には、少しも出すことなく、いつも明るく、気さくに、小規模経営者にも、分け隔てなく声を掛けて付き合う人でした。他社をライバル視する言葉は一度もありません。

警備業の未来についても、よく聞かされました。記憶に残るのは、国民の皆が安心して、安全な生活を営むためのトータルな安全産業を思い描いているとの話です。食の安全、住まいの安全、健康の安全、病気治療の安全など、今日のセコムの姿でしょう。

お付き合いを始めてから半世紀。全警協時代は、それこそ、四六時中一緒でした。感動を受けた言葉や行動は、是非ともあやかりたいと脳裏に刻んでいたものです。

私の「人生の師匠」
宮城県警備業協会 元会長
トスネット 代表取締役会長 佐藤康廣氏

30年ほど前のことです。私は宮城・仙台中税務署から優良納税者として表彰されましてね。飯田さんは全警協の会長で、そのことを伝え聞かれていたのでしょう。会議でお会いして、「君が仙台の佐藤さんか。警備業で優良納税者は珍しい。素晴らしいことだ。今度、東京へ出てきたら会社(当時・野村ビル)へ遊びに来いよ」と言われました。そうはいっても、敷居が高くて…。

それから10年ほど経ってのことです。ジャスダックに株式上場することを決め、相談に行ったのです。ここでも「いいことだ」とほめてもらい、即座に17%の株を引き受けてくれました。飯田さんは、その場で、毛筆を手に「挑戦」と色紙に書いてくれましてね。達筆でした。

後日、その字を扇子と手ぬぐいに印字して持参しました。飯田さんは役員を呼び「(自分は)今夜は会合がある。君が佐藤さんを赤坂(料亭)と銀座(バー)に接待してくれ」と、飯田さんのなじみの店を指示し、「これからは上京したら必ず顔を見せろよ」です。以来、経営報告を兼ねて2か月に一度はお邪魔しました。

飯田さんは東京・馬喰町の酒問屋の生まれ、私は同じ東京・向島の米屋のせがれ、下町の話になるとおおいに盛り上がったものです。いろんな話をしてくれました。物事にじくじく言わない、粋な人でした。私にとっては、まさに「人生の師匠」です。

巡り合えてよかった
静岡県警備業協会 元会長
中央防犯 取締役会長 富澤静雄氏

2000年代の初めです。飯田さんの助言もあって、我が社の機械警備の契約件数は、静岡県でトップの1万件近く。ただし、景気の低迷、他社の参入、警備単価の下落などで、資金繰りは厳しいものになっていた。私は思い切って飯田さんに機械部門を柱とする吸収合併をお願いしたのです。

飯田さんは「そうなのか。ここまで大きくしたのだから、もったいない。それでもというなら受けるが…本当にいいのか。機械以外の警備は続けることで、社名は残せばいい。応援するよ」と対応してくれました。機械警備の担当者、210人がセコムに移りました。

サッカーJリーグに15番目のチームとして「福岡ブルックス」(現アビスパ福岡)が参入したときも大変な支援をしてもらいました。地元のサッカー強豪校、藤枝東からサッカー選手が入社していた。そこで「中央防犯サッカー部」を結成、どんどん強くなって日本リーグ2部で優勝ですよ。

そのころ、Jリーグ発足の機運が高まったので加盟の手を挙げたのです。ところが、藤枝市には基準を満たすスタジアムがない。諦めかけていると、チーム誘致に動いていた福岡市から「母体にならないか」と要請を受けました。飯田さんに相談すると、ここでも「応援するよ」。大口スポンサーの九州電力のトップ、初代チェアマンの川淵三郎さんにも掛け合ってくれました。新会社では、いきなり会長就任です。

常識にとらわれない、面倒見のいい、典型的な“親分肌”の人。素晴らしい方に巡り合えて本当に良かった。つくづくそう思っていますよ。

飯田学校の卒業生
神奈川県警備業協会 元会長
元ゼンニックス 会長 原田篤二郎氏

セコムに入社したのは1966(昭和41)年、社員番号はちょうど500番。社員証は今でも手元に置いていますよ。最初の仕事は、「ビート隊」と名付けられた夜間の巡回警備だった。躍動して打ち負かすとかの意味でネーミングされたとのことだった。

 一晩で都内、神奈川、千葉県を回るのだから大変だ。走行距離はタクシー並みだったと思うよ。それでも、みんな朝から晩まで一生懸命やっていた。早朝6時ごろ会社に帰ると、飯田さんの盟友、戸田壽一さんが待ってくれていて「ご苦労さん」と声を掛けてくれたのを思い出します。

 次の配属は「SPアラーム技術部」。飯田さんが社運をかけて取り組んだ機械警備の指令室です。飯田さんは、しょっちゅう顔を出して、「これからの警備は、これだ!」と皆に声を掛けながら、乾いた布で機械を磨いていた。思い入れの強さを感じたね。結果はそのとおりになって先見の明に感服しきりでした。

 飯田さんは29歳で起業した。実を言うと、私もあやかって、一旗揚げようと同じ年齢になって独立したんだよ。その時、会社だけでなく、よみうりランドに1週間泊まり込んでの研修会など飯田さんから聞かされた話は大変参考になった。

 我々、セコムの創業時の連中は「飯田学校の卒業生」だと思っている。飯田さんは偉大な先生だった。毎年、お元気だった飯田さんも出席して旧交を温めた<アウル(ふくろう)会>は楽しかったね。

〝形見〟となったネクタイ
千葉県警備業協会 元会長
北総警備保障 代表取締役社長 宮﨑武則氏

「嘘だろう」――。知人から知らせを聞いて、最初にそう思いました。信じられませんでした。

私がセコムに入社したのは1969(昭和44)年10月。20歳の時に千葉支社に入社しました。

テレビドラマ「ザ・ガードマン」が放映中で、まさに注目を集めていた会社、業界でした。支社では皆イキイキと働いていました。

私は「ビート隊員」として勤務しましたが、制服は当時としては斬新なデザイン。街では多くの人が振り返り、誇らしかったことを今でも覚えています。

セコムでは3年間勤務して25歳で独立、千葉県内に警備会社を立ち上げました。セコム出身者で自分の警備会社を興したのは私が初めてでした。

43歳で千葉県警備業協会の会長となりました。セコム出身者としては全国初の警協会長でした。当時の全国警備業協会の会長は飯田さんです。

初めての全警協会合に出席した帰り、エレベーターで二人きりになった時のことです。「一番若いのだから業界を活性化しろ」と声を掛けられました。

2回目の会合から、積極的に発言を行ったところ、他の会長からも質問や意見が相次ぎました。飯田さんからは「よくやってくれた」と褒められました。

飯田さんとは全警協会長時代、その後はセコム関係者のOB会「アウル会」でのお付き合いでした。アウル会でチャリティーオークションを行った際、飯田さんは自身の持ち物を出展くださいました。私は飯田さん愛用のネクタイを手にしましたが、それが形見分けになるとは思ってもみませんでした。

飯田さんには警備業をここまで育てていただいて感謝しかありません。