警備保障タイムズ下層イメージ画像

クローズUP

震災避難4万1千人2021.03.11

「自県外」福島が最多

復興庁は2月26日、東日本大震災による避難者の数を発表した。2月8日現在で全国47都道府県の928の市区町村に4万1241人が避難している。1年前の2020年2月10日時点から6496人減少した。

自県外へ避難している人の数は、福島県から県外が2万8505人、宮城県から3677人、岩手県から914人。原発事故に伴い「帰還困難区域」などが指定された福島県が突出して多い。

避難先の都道府県別で最多だったのは、福島県で7220人(1年前より2840人減)。次いで東京都3683人(同607人減)、埼玉県2964人(同232人減)、茨城県2916人(同348人減)、栃木県2756人(同105人減)の順となっている。

施設別では、応急仮設住宅等と民間賃貸・公営住宅等が1万7816人(同5570人減)、親族・知人宅等が2万3234人(同901人減)、病院等が191人(同25人減)だ。

避難者数の推移(20年12月25日発表)を見ると、11年12月は33万2691人で、最多は12年12月の34万6987人だった。16年6月には半数以下の15万4782人に減少し、19年6月は5万665人となっていた。

11年12月時点で自県外に避難していた人の数は、福島県から県外が5万9464人、宮城県から8603人、岩手県から1536人だった。

特集ワイド 10年目の被災地警備業2021.03.11

東日本大震災から10年――。編集方針の一つに「被災地に寄り添う」を掲げる本紙は、これまで被災3県で復興に取り組む警備業を取り上げてきた。10年という節目を迎えた今、地震・津波・原発事故と想像を絶する苦しみを経験した被災地警備業の現状に迫った。

福島 母娘の絆で復興に 五光警備

福島県警備業協会の総務委員会委員長・佐藤恵美子さん(59)が代表取締役を務める「五光警備」は県北部の相馬市にある。以前は警備会社や建設関係の会社に事務仕事で勤めていたが、幼稚園や小学校に通っていた娘が誰もいない自宅に戻ってくるのを不憫に思い、1996年に自宅のひと間を事務所に改装、警備会社を立ち上げた。

10年前に市内を襲った「震度6弱」の大きな揺れは、その後自宅敷地内に建てたプレハブ造りの事務所2階にいる時にやってきた。幸い事務所倒壊は免れたものの、室内には事務機器や各種簿冊が散乱した。

約1時間後、高さ9メートルを超える大津波が義父の暮らす原釜地区など市内沿岸部に到達、海岸から約4キロメートルまで流れ込んだ。犠牲者数は458人。義父もその一人となった。

約1か月して義父の遺体は見つかった。愛用のバイクで逃げようとしていたのか、ヘルメットを被り手袋をしていた。奇跡的にも遺体には傷もなく、ポケットには免許証も残っていた。その間、佐藤さんの元へは、隣接する南相馬市から原発事故などによって避難してきた親族が身を寄せた。食事の世話など多忙な日々が続いたが、親族が去ってから義父を亡くした悲しみや変わり果てた故郷への思いが日増しに強くなっていった。

そんな佐藤さんを元気づけてくれたのが、同じ福島警協相双支部に所属するコスモさくら警備保障の鹿島栄子社長だった。佐藤さんと同じ女性経営者だ。会合などで会うたびに「大丈夫?」「頑張ろうね」の言葉に励まされた。

去っていった警備員

施設警備は、震災直後から勤務できる隊員を確保して巡回警備だけは続けられた。交通誘導警備は2か月ほどしてから再開できた。

しかし、子供を持つ隊員は原発事故の影響を嫌い地元を去っていった。残った隊員も復興需要目当ての賃金の高い県外業者、危険は伴うものの高賃金の除染作業などに流れていった。20数人いた警備員は今では3分の1になってしまった。

震災前は募集すれば応募があったが、今では皆無だ。やっと採用できても長続きしない。

6年ほど前、人手が足りずに仕事が回らなくなった。佐藤さんの「会社の危機。助けて」という言葉に立ち上がったのは3人娘の次女・圭さん(31)だった。

近所のスーパーで正社員として働いていたが、母の苦悩を無視できなかった。

幼いころから警備員検定に臨む隊員のために、三角巾で手当てされる役を行うなど警備業に慣れ親しんできた圭さん。学生の頃、深夜に近所の交差点で交通事故が発生した時には、母や県内大手警備会社に勤務し協会特別講習講師を務める父の指示に従い、誘導灯を手に「二次災害」防止のための交通誘導を行ったこともある。

今では2号の警備員指導教育責任者と交通誘導警備業務2級検定を取得。苦手だったパソコンも使いこなし、後継者としての自覚も出てきた。

佐藤さんが会社を立ち上げたときから考えていた「65歳で引退」まであと数年となった。モットーとしてきた「地元密着の警備会社として顧客に信頼され、お願いして任せられる会社」は、震災がより強くした母娘の絆によって娘へと引き継がれていく。

岩手 2つの会社の強い絆 N・SAS

「“あっという間”という言葉しか見つかりません」。こう振り返るのは警備会社「N・SAS」社長の及川明彦さん(56)だ。岩手県警備業協会の専門委員会担当理事として2014年には県内警備業の震災による被害や対応を克明に記録した「2011・3・11 東日本大震災記録」の編さんに当たった。昨年6月の協会総会で岩手警協会長に就任した。

及川さんは17年9月、先代から長く慣れ親しんできた社名「南光警備」を「N・SAS」に変更した。Nは南光警備、Sは15年に合併した三陸警備保障から、それぞれ頭文字をとった。この新社名には2つの会社の強い絆への思いが込められている。

親しい同業者が津波に

10年前の3月11日、及川さんは県内陸部の北上市内の本社2階で執務しているところを強い揺れに襲われた。各種簿冊が収納されていたスチール製の書棚が左右に1メートル動いた。

社員は全員無事だったが、施設警備や機械警備の契約先の被害が気がかりだった。及川さんは、その日から約1週間、事務所に泊まり込み、24時間体制で契約先からの対応に当たった。

自宅を不在にしていた間、妻と2人の子供が余震を怖がって車中生活を送っていたのを知ったのは、仕事に一区切りついて帰宅してからだった。

県沿岸部が津波に襲われて大きな被害が出ていたことを知ったのもその頃だった。

その後合併することとなった三陸警備保障は、津波で甚大な被害を受けた陸前高田市にあった。主な警備業務は施設・機械・交通誘導。及川さんの会社と同じだが、内陸部と沿岸部で営業エリアが異なっていたため、先代から気心の知れた仲のいい同業者だった。たまにそれぞれの地区で仕事が出ると互いに快く協力してきた。

同社の社員は全員無事だったが、社長夫妻と長女と夫の専務夫妻が津波に流された。社長夫妻は現在も行方不明のままだ。

危うく難を逃れた次女の夫・村上浩一部長が及川さんに助けを求めてきた。

会社に残されたのは、部長が使っていたワンボックスカー1台のみ。社屋から書類から全て津波に流された。及川さんの支援は「代表印」をつくることから始まった。

業務再開を果たし、数年経ったある日、村上部長は及川さんに会社を引き取ってほしいと言ってきた。

及川さんは「そんなつもりで手伝ってきたんじゃない」と固辞した。一方で、津波による大きな被害で先が見通せない中、2つの会社を切り盛りできる自信がなかったのも事実だ。

村上部長は県外大手への会社譲渡を打診したが、帰ってきた答えは「顧客は引き受けるが社員はいらない」だった。

震災直後から会社の復活のために頑張って来てくれた社員を裏切ることはできない。苦悩する村上部長を見ていた及川さんの腹は決まった。「合併しよう」。

同業他社の“横槍”を避けるため、合併話は及川さんと村上部長の2人だけで進めた。信頼できる顧客を中心に約1か月間掛けて訪問、理解を求めた。話が他社に漏れそうな顧客には合併前日に訪問して「明日合併します」と報告した。

津波で多くの企業が廃業や倒産を余儀なくされた陸前高田市で、合併という形で老舗の警備会社を救った及川さんへの評価は高い。慣れ親しんだ社名を変更、2つの会社の社名を新社名に刻んだとなればなおさらだ。復興した地元金融機関や多くの企業から警備業務の依頼が続いているのがその証拠だ。

そんな地元への恩返しと復興のため、及川さんは陸前高田市内に営業所事務所新築も検討している。

被災地へ「災害支援隊」出動 2021.03.11

宮城・七ヶ浜

全国警備業協会は2011年3月11日の東日本大震災のあと、津波で甚大な被害が発生した宮城県七ヶ浜町で初の人的支援を行った。「全国警備業協会災害支援隊」の派遣だ。支援はその後、大阪など6府県の支援隊に引き継がれた。本紙は震災から10年後の現地を訪れるとともに、支援隊の2人の元隊員に震災10年目の思いを聞いた。

警備業の災害支援は、震災発生から間もない2011年3月22日に現地入りした「全国警備業協会災害支援隊」に始まる。以降、大阪、神奈川、千葉、埼玉、愛知、兵庫(仙台市内で活動)の各府県警備業協会が「安全活動協力隊」や「災害支援隊」「災害支援協力隊」などの名称の支援隊を全警協の要請を受けて5月27日までの51日間、順次派遣した。派遣は計7次にわたり、派遣人員は延べ730人にのぼる。

支援内容は昼夜の町内の防犯パトロール。不審者への声掛けや復旧作業を行う住民の見守りなどだ。

第一次派遣隊の全警協支援隊は、必要物資を事前に調達して現地に入る「自己完結」に徹したが、震災後の全国的な品薄状態で物資入手には困難を極めた。

現地入り後は、断水によりトイレ使用不能などのトラブルに見舞われたが、宮城県警による仮設トイレの提供、警察学校の入浴施設の利用など関係機関の協力により、支援隊隊員の生活に支障は来さなかった。

同派遣は、生活安全産業である警備業の社会貢献を広くPRすることとなった。また、活動で得られたさまざまな知見・経験の蓄積は警備業の災害支援の貴重な財産となった。

体験の重み伝える

元・全警協災害支援隊 隊長 前島秀規さん

警備業の災害支援隊「第一陣」として宮城県七ヶ浜町入りしたのは「全国警備業協会災害支援隊」だ。メンバーは全警協「技術研究専門部会(技研)」に所属する震災被災地以外の専門部員11人。これに全警協職員2人が加わった。隊長には当時、静岡県内で警備業を営んでいた技研指導強化コーチの前島秀規さん(現・全警協研修センター長)が抜擢された。

以前から「東海地震」への備えが叫ばれていた静岡に住んでいたこともあり、災害には人一倍関心があった前島さんは、阪神・淡路大震災や中越地震発生時には現地にボランティアとして支援に駆け付けた。そんな経験を買われての支援隊隊長への要請だった。

3月22日、宮城県仙台市に向け支援隊は出発した。当初は市内で多発していた窃盗防止のための巡回パトロールを行う予定だった。しかし、県警本部を訪問・協議した結果、津波で被害を受けた塩釜署管内の「七ヶ浜町」での防犯パトロールを行うこととなった。

警察も「ほぼ手付かず」の状態だった町内には、破壊されてこじ開けられたATMや自販機が放置されていた。津波で流されてきた車両の中には遺体らしき姿も見える。前島さんは「今も目に焼き付いています」と当時を振り返る。

パトロール中に復旧作業を行う住民を目にするが、皆心に深い傷を負っている。声掛けはあいさつ程度にとどめ、けっして「頑張ってください」と言わないよう全隊員に徹底した。

体験を伝え続ける

会社を離れ全警協の研修センター長に就任してからは、技研研修の春の1回目は「災害訓練」を取り入れた。検定教本に地震への対応も取り入れた。「備えと訓練」。支援隊で学んだことは数知れない。災害支援協定や支援隊のあり方にも思いを巡らす。

「災害発生当初はボランティアでいいが一定期間以降は有償でなければ支援自体が長続きしない」「支援隊メンバーは、どんな時でも駆け付けられる地場警備会社の能力の高い中堅がいい。毎年メンバーが変わるような数合わせではいけない」。いずれも支援隊での経験で得た教訓だ。

いまでも時々「ユーチューブ」で震災の映像を見ては、薄れていく記憶を鮮明にするとともに、震災時の対応を再確認する。

支援隊は前島さんの人生の転機となった。現地での経験は災害への意識をこれまで以上に高め、乗り越える自信にもつながった。「体験の重み、これを伝えることが使命です」と語った。

埼玉から、宮城に残る

元・埼玉警協災害支援隊 角田康武さん

角田康武さんが宮城県七ヶ浜町に初めて足を踏み入れたのは、震災発生後1か月ほど経った2011年4月だ。埼玉県警備業協会の災害支援隊の隊員として現地入りした。

当時、埼玉警協の会長会社「セキュリティ」(所沢市、上園俊樹代表取締役)に勤務していたが、支援隊の隊長を務めた協会特別講習講師で同社先輩社員とともに支援隊のメンバーに選ばれた。「いずれ何らかの形で復興に携わりたい」と思っていたところへの現地派遣だった。

15人の埼玉支援隊はメンバーを3人ずつ4班に分けて、かつて住宅があった場所や避難所など昼夜2回のパトロールを行った。パトロールには、支援隊第一陣の全国警備業協会災害支援隊以降、各府県警協支援隊が拠点として本部を置いて寝泊まりしたコニュニティーセンター(公民館)からマイクロバスで対象地区に移動。各班は徒歩でパトロールを行った。

角田さんは、パトロールで目にした現地の悲惨な状況は今でも鮮明に覚えている。海岸には仙台港から100を超すコンテナが津波で流されてきていたが、中にあった新品のタイヤは何者かによって持ち去られていた。

1週間の支援隊派遣が終わるころ、会社から「復興支援のために宮城県内に営業所を開設する。現地に残れ」との連絡が入った。それから10年間、営業所長として角田さんの復興支援は続いた。県北部の沿岸部・気仙沼では、地元相場より高い賃金で警備員を募集、職を失った住民に働く場所と生活支援を提供した。

青年部活動にも参加

今春、会社は現地営業所を閉じる決断をした。「復興は終わっていない」と感じる角田さんは、悩んだ末に会社に辞職を申し出た。

10年前、営業所開設に当たり宮城県警備業協会に加盟したが、「県外業者」という遠慮もあり活動には参加していなかった。しかし、ある協会青年部の先輩の誘いで青年部活動を始め、今では事務局長を任されるまでになった。

会社を辞めた角田さんに「うち(日本パトロール警備保障/仙台市、後藤公伸代表取締役)に来ないか」と声をかけてくれたのも青年部の仲間だった。

「土地のかさ上げなどが行われましたが街の機能は取り戻せていません」と復興の現状を語る角田さん。「地元の人が働ける場所をつくりたい。待遇をよくしたい。警備業界をよくしたい」。角田さんの復興への取り組みはこれからも続く。